鰕蔵異聞 19 中村仲蔵の目線
(承前 初代中村仲蔵の浮世絵)
四代目市川団十郎は演劇に関わる私塾を開いてまで後継者たちを育てていますが
初代中村仲蔵も、その「木場の親玉」に演技を高く評価された歌舞伎役者で
後年刊行された『歌舞伎年表』(伊原敏郎・清清園著)にも時代考証を含め
確実な同時代資料の一つとして取り上げられた『秀鶴日記』を記した人です。
この人は歌舞伎役者の家ではなく一般的な江戸庶民の家に生まれたようですが
幼い頃から歌舞音曲に関心があり、宝暦四年(1754)に役者の道を選び
「忠臣蔵」で演じた役柄が「大当たり」して一気に評判が高まりました。
天明五年(1785)には芸名を中村仲蔵と改めています。
安永七年八月末に勃発した五代目市川団十郎と四代目松本幸四郎の「騒動」の
折に仲蔵は丁度江戸三座の一つ森田屋で「座頭」の地位にあり、歌舞伎界
始まって以来の「謀反・反乱劇?」をその眼で直に目撃していたのです。
従って、彼の「証言」は他の誰よりも「真実」を伝えているはずだと思われ
勝ちですが、恩顧ある市川家の五代目を見る眼付は存外冷静です。
当時の様子を中村仲蔵は、
この人(五代目団十郎)は、いたつてちよくの生まれにて
高位の公達のごとく学問よろしく、狂歌俳諧に達し、
世事に通じ、理に暗かねども、心に知って行いしこと
なければ、人の申す事を誠に存じ、度々、深入りをして
人を疑い申され候。
これは金銀不足なく、衣食に乏しからず育ちし身の
幼少にして母に別れ、去る三月朔日、父に別れ、
継母(お松)の取り計らいも何事も心ならず
妻はあれども、このたびしきって暇を乞うゆえ
去り状を遣わしたれど(攻略)
と表現しており、そのまま読めば「金持ちのわがまま息子」が
自ら疑念をかきたてているだけ、とも受け取れます。
また彼は、五代目が「妻(かめ)」に「去り状」を渡したと明言し
「歌舞伎年表」の著者である井原の『市川團十郎の代々』という
資料にも「二代目八百蔵の未亡人、るやと再婚したりき」とあるので
事件後早くに「離縁」されたものと推測できます。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう


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