鰕蔵異聞 17 六代目・徳蔵生まれる

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承前 平賀源内の『飛だ噂の評』は安永七年九月に刊行された)

人気俳優の二代目市川八百蔵(俳名、中車)は、自分の死期を悟っていたのか、
亡くなる直前の安永六年六月、一人息子の伝蔵(十二歳)に三代目中村伝九郎
名乗らせて歌舞伎役者としての道を歩ませています。中車が鬼籍に入ったのは
その一カ月の七月ですから、わが子の成人を心待ちにしていたのだと思います。

その願いは当然、妻の「おるや」も同じ、いや、無二の人と信じていた夫が
他界してからは、ずっと強くなったのではないか、と想像するのですが、
その一粒種の伝九郎は、確かに歌舞伎の世界で生きては行くのですが、
何故か父親の名跡を継ぐことはありませんでした。

二代目が亡くなった翌年の夏、突然巻き起こった醜聞の嵐。
その余波は当然残された妻子にも襲い掛かった訳で、
五代目市川団十郎は、一門の兄弟弟子の遺児の後見も担っていたと考えられ、
「おるや」も三代目の襲名を望まないはずがないと勘繰るのですが、
実際には、全く異なる方向で事態が進んでいました。

安永七年という年は五代目にとって「特別」な年として記憶されます。
先ず三月の興行中に実父四代目市川団十郎が生を終えますが、
当代の団十郎は一部芝居の筋書きを変更はしたものの、
当たり役「景浦」を正月から五月朔日まで百参十日余りも続けて
公演を重ね江戸中の評判を総ざらえする勢いでした。

冒頭の画像で紹介した風来山人の『飛だ噂の評』が公刊され、
五代目と後家「おるや」が事件化したのが同年の九月なので、
この年の「顔見世」で団十郎の雄姿を見る事は出来ませんでした。
失意落胆の彼にとって唯一の明るい出来事は、恐らく六代目の
誕生だったに違いありません。

徳蔵と名付けられた男の子には市川宗家の期待がかかります。

  (続く)



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