仲麻呂たち 7 行基の登場

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承前 広継たちの逮捕と処刑を記した「続日本紀」)

 人の目とは案外頼りにならないものです。こうやって日にち毎に記事を並べられると、何の疑いも無く、書かれた内容を素直に受け入れてしまいそうになるものです。さて、何が、どの様に「糊塗」されているのでしょう?「続日本紀」の編集に携わった者が意図していたのかどうか、それは兎も角、明らかな矛盾が一つ認められます。


 天皇は弘嗣(藤原広継)が「二十三日」に捕らえられた、という報告を「二十九日」に受けていた、にも関わらず、それを知ったのは「十一月三日」である、としています。そして天皇の「法の規定通り」「処断」せよ、と云う詔が東人に下されたのも、同じ「十一月三日」だと云うのに、大将軍は「十一月一日」に既に刑を執行しているのです。

 「謀反人は死罪」との「規定」があったにせよ、大野東人が独断専行したのでしょうか?或いは天皇が詔するより「前」に、誰かが大将軍に「命令」を発していたのでしょうか?また、天皇に「行幸」を思いつかせた程「重大」な関心事であるはずの「弘嗣逮捕」の知らせを、天皇は何故、数日も「見なかった」(或いは「見せられなかった」)のでしょうか?疑念は晴れません。

 反逆者「弘嗣」の起こした「乱」に連座し捕らえられた者は、死罪二十六人、官位を剥奪された者五人、流罪四十七人、杖罪百七十七人の計二百五十五人にも及んだそうですから、若し「続紀」の言うとおり『凶悪な性格で、よく人を偽り陥れる』事で知られた「身内」の叛乱が朝廷内外に与えた影響は大変深刻なもので、藤原弘継一族は勿論、事件に関係した者も再び日の目を見ることが永遠に出来なかっただろう、と思うのが当たり前の感覚なのですが、なんと、一年も経たない天平十三年九月八日、恭仁宮への遷都に伴う「大赦」の名目で『反逆者広嗣に連座して罪人となった者すべて』が赦免されているのです。

 寛大なお上の思し召しと言えばそれまでですが、この、あっけない放免の事実も、事件の複雑な性格を物語っているように思います。国分寺の創建(天平十三年)にも深く関わったとされ『栄寵、日に日に盛ん』であった玄昉でしたが、その実態は、

  ようやく沙門の行に背けり。
  時、人これを憎む(「続日本紀」没伝)

と言う有様だったようですが、この「続紀」の書き方が、それとなく広継の言い分を代弁しているようにも思えるのは、筆者の深読みの性でしょうか?「弘継の乱」の余韻も覚めやらない天平十七年正月、注目される詔が発表されます、それが行基法師の大僧正任命でした。朝廷の中枢で、静かに、そして着実に進む地殻変動を「続日本紀」は「地震」の多発という自然現象に置き換え克明に記録していますが、玄昉は、此の年の十一月二日筑紫の観世音寺に「造営のため」の名目で配流され、わずか二週間後の十七日には、それまで与えられていた「封戸と財物」も全て没収されてしまいます。

  (続く)


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