「江戸方角分」と瀬川、南畝

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(『諸家人名江戸方角分』に掲載された三代目瀬川菊之丞の名前)

東洲斎写楽の事を少しでも興味を以って調べてみた経験のある方は
諸家人名江戸方角分』という名称の文化人名鑑のような書き物を
知っていることと思います。

この文書は文政元年ころ、江戸の歌舞伎役者だった第三代瀬川富三郎という
人によって編集された写本だという評価が下されている資料なのですが、
筆者はかつて、この大田南畝(蜀山人)による「奥書」に疑念を持ち、
否定的な記事を幾つか書いた経験があります。
それは、

  ① 奥書の文書そのものの配置の不自然さ、二頁に分割
  ② 奥書の南畝直筆とされる書体が、現在知られている
    他の文書の物とは異なっている事
  ③ 南畝自身の「蔵書目録」に記載がないこと
  ④ 南畝以外では珍書を扱った店の蔵書印がある
    写本以外には、全く流通した形跡が見られない事

など、一千名を超える、当時としては最も収録人数の多かった名鑑に
なるはずであった「原資料」なのに、何故、古本屋以外の人々の
関心を惹かなかったのかが、とても不審に思えたからに他なりません。
ただ、今となって見れば、千八百年代初頭には他にも「人名録」は
幾種類も発刊され、売買されていた訳ですから「狂歌師」に最も
比重をかけて編集された写本に魅力を感じた江戸っ子たちが、余り
いなかっただけの事なのかも知れません。

また文化十一年十一月に晴れて三代目・富三郎の名跡を継ぐ襲名披露を
終えて芝居の修行にも一段と力を入れていたであろう大切な時期に、
本業とは何の所縁もない、そして「稼ぎ」にもならない「人名録」の
編集に時間を割き、出費も辞さなかったのかという疑問についても、
最近知った第二代瀬川如皐(1757~1833)という歌舞伎作者の
存在が筆者の疑念を晴らしてくれそうに思いました。

初代の如皐は上方生まれで踊りの市山流の出身で、江戸で人気者になった
第三代瀬川菊之丞の実の兄で、この人も一時期は瀬川乙女の芸名で
女形を演じていた役者であり、後に芝居作家に転じた人物でした。
そして松川鶴市の項で紹介した『只今御笑草』という題名の随筆集を
文化九年(1812)に出版した第二代・如皐は初代の弟子だったと
思われる河竹新七一門の作家です。

つまり、歌舞伎役者の瀬川一家の背景には、このような「物書き」を
専門としたブレーンが存在していた訳です。
三代目瀬川富三郎がまだ「少年」だった享和三年正月に、とある
料理店で大田南畝と出会い、踊りを披露したことは別記事で述べましたが
その時「瀬川浜次郎」を名乗っていた歌舞伎役者が、後年になって
「文化人名鑑」それも「狂歌」を主軸にした人名録を手掛けていると
聞いたなら、あの南畝の事だから、ひょっとしたら届けられた写本に
気軽に「奥書」を寄せたのかも知れない。そんな思いもあります。
ただ、それでも疑念が全て払拭された訳ではありません。
書体の件や限られた写本に関する問題は未解決のままだからです。




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