仲麻呂たち 6 不可解な国史の記述

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承前 仲麻呂はどんな気持ちで月を眺めたのか)

 朝廷は直ちに大野東人(おおの・あずまびと)を大将軍とする征討軍を発令、二ヶ月に及ぶ攻防の結果、広継軍は破れ、十一月一日、松浦の地で最期を迎えました。十二世紀半ばに書かれたと思われる「今昔物語集」は挙兵と討伐に関して『我れ公の御ために過つ事無しと云えども、公、横様に(理由なく)我れを討たんとす。此れ偏に僧玄昉が讒言なり』と広継の立場を代弁していますが、真相は藪の中、という他ありません。

 ただ、藤原広継の「叛乱」が朝廷に与えた衝撃がどの程度深刻であったのかについては、討伐の軍勢を続々と送り出している最中の十月十九日に「伊勢国に行宮(かりみや)を造る司」を任命し、続いて二十六日には『思うところがあって、今月の末から暫くの間、関東に行こうと思う。行幸に適した時期ではないが、何分、事態が重大であるので、やむを得ない』という意味の勅を大将軍たちに発している事実が如実に示していると思います。

 これらの動きは、広継の反乱軍から身を遠ざけるというよりも、むしろ朝廷の内部に広継に同調するような、不穏な勢力が存在していたことを示唆しています。だとするなら、強ち広継の言い分も的外れなものではなかった可能性も十分残されていると考えるべきでしょう。

 また「続日本紀」は月日を整然と並べ、あたかも記述された内容が時間の経過を正しくなぞったものであるかのように装っていますが、広継の最期、処刑の日時に関して、妙にちぐはぐな書き方で何かを糊塗しようと試みたのではないか、との疑念を払拭できません。それは、次のようなものです。

  十月二十九日、伊勢国に行幸が行われた。

  十一月一日、伊賀郡安保に着き、宿泊した。

  十一月二日、伊勢国壱志郡の河口頓宮に到着した。これを関宮と称した。

  十一月三日、この日、大将軍東人の言上があった。
        今月二十三日に逆賊の広嗣を捕まえた、とのことである。
        天皇は「今、十月二十九日の奏上を見て、広嗣が捕らえられたことを知った。
        広嗣の罪は明白なので、法の規定により処断し、報告せよ」と詔された。

  十一月五日、大将軍東人が「今月一日、
        広嗣と網手の斬刑を執行しました」と言上した。

  (続く)



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