仲麻呂たち 5 藤原式家の没落
(承前 『今昔物語集』)
式部少輔・大養徳守であった藤原広継が大宰少弐に転じる辞令が下されたのは天平十年十二月のことでしたから、彼も二年余り、九州の地に留まりながら都から伝えられる「風評」に耳を尖らせていたものと思われます。
ただ広継が「お后」の言動について批判した内容を天皇が「糸、便なきこと(大変、けしからん事)」と受け止められた事情は十分理解できるとしても、その「批判」が直ちに「広継を討ち取れ」という宣旨につながったとするのには余りにも根拠が薄弱なように感じられるのですが、読者の皆さんは、どのように判断されるでしょう。
と言うのも広継が大宰府の次官として左遷された原因も「続日本紀」によれば『親族を誹謗した』との理由ですから、その「親族」が「叔母たち」を含む人々であったことは容易に想像できますし、論調は多少違っていたとしても、彼女たちの言動を、その頃から批判し続けていたことは間違いないと考えられるからです。
閑話休題--弘継の出した「国解(こくげ、公文書)」は八月二十九日の日付で都に届けられ「続日本紀」は、
大宰少弐・従五位下の藤原朝臣広嗣が表をたてまつって、時の政治の損失を指摘し
天地の災異の原因となっていると陳べ、僧正の玄昉法師と
右衛士督・従五位上の下道朝臣真備を追放することを言上した。
と簡潔に記しています。また『松浦廟宮先祖次第併本縁起』という文書によれば、広継は、
天地の災異は「賊人による君位奪取の兆候」
玄昉は僧であるにも関わらず財を積み、
天皇皇后を騙し密かに宝位を狙っている
また下道真備は玄昉と契って国を転覆させようと企んでいる
から二人を朝廷から除かなければならない、と自らの正当性を主張しています。父そして伯父たち亡き後、藤原家のホープを自認していた広継にとってみれば、正に今こそ己が国政の中心にあって活躍すべき時であるにもかかわらず、彼から見れば数段格式の低い家柄出身者たちに軽くあしらわれている、という思いが強かったに違いありません。
その上、身内であり自分の良き理解者であるべきはずの叔母たちまで実家(藤原式家)の没落を容認あるいは無視していると広継には感じられていたのでしょう。既に見たように、彼の「上表文」は全くとりあってもらえなかったのですが、広継も、その事は先刻承知の上だったことは「挙兵」の知らせが一週間も経たない九月三日には都に届いていることでも明らかです。
(続く)
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