富雄丸山古墳考 32 遺児たちの反乱?

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承前 倭人が金城を包囲したと記す『新羅本記』)

神功皇后による勇ましい「勝ち戦」が何時の出来事だったのか、
もう今となっては確かめる術もありませんが、倭国の軍勢が、
西暦390年代にも新羅に攻め込んだ事実はあったようです。
それが上に貼り付けた画像にある新羅、奈勿尼師今三十八年五月の事、
干支ニ運を繰り上げると西暦393年に該当します。
また歴史の教科書にも取り上げられる有名な「好太王碑文」によれば、

  辛卯の年(391年)倭が海を越え襲来して
  百済や新羅を破り臣民とした

とも伝えられていますから、これらは神功皇后が亡くなった「己丑」の年
(西暦389年、日本書紀による)より後の出来事、つまり彼女の息子
である「応神天皇」が即位してからの外征だったと言えます。

長々と四世紀の倭国の実情を見てきましたが、仲哀天皇の「遺児」による
反乱はあったのでしょうか?書紀は言います。

  乃ち詳りて天皇の為に陵を作るまねにして
  播磨に詣りて山陵を赤石に興つ
  よりて船を編みて淡路嶋に渡してその石を
  運びて造る。即人毎に兵を取らしめて皇后を待つ

いかにも見て来たような口ぶりですが、この一文を読むだけでも、
「反乱」の中身が胡散臭いものであることが分かります。
何故なら「播磨」の「赤石(明石)」と言えば応神の実父だと推定
されている稲背入彦命の本拠地であり、その周辺は息長氏一族や
それに従う海神族が支配、管理する内庭のような場所だった訳で
そんな所に「謀反人」たちが拠点を築ける訳がありません。
更に書紀は続けて、

  犬上君の祖、倉見別と吉志の祖、五十狭茅宿禰

の二人が麛坂王の味方に付き将軍として東国の兵を集めた、とも
述べていますが、後者の五十狭茅宿禰とよく似た名前の人物が
神功皇后摂政三年条にも登場し、そこでは「稚日女尊」を

  活田長狭国に海上五十狭茅を以って祭はしむ

とあって皇后側に立つ神官として扱われています。従来、研究者たちは
二人を「同一人」とする根拠は疑わしく『国造本紀』が記録していた
「胸刺国造」条は信用できないとしていますが、果たしてそうなのか。

  (続く)


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