五十 4 息長氏との関連は?

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承前

 つまり「五十族」と筆者が仮に呼んでいる人々の祖先は「大変優れた金属(鉄)」がシンボルだった訳で、その中に「饒速日命(ニギハヤヒ、豊かで速い日とは稲妻を表す)」という名前の人物が居て当然です。さて、五十が「イ」あるいは「イカ」の音で何を伝えようとしたのか少しは解明できたように思いますが、現代にも継承された名前を一つ例に上げると「五十嵐」という姓がすぐに脳裏に浮かびます。

 皆さんも、この表記を見て恐らく直ぐに「イガラシ」と読んだはずですが、では、何故これが「いがらし」なのかは中々説明出来ないと思います。新潟三条市は金物、刃物の産業で全国に知られた地方都市ですが、その中心を流れる河川を五十嵐川と云い、同地には伊加良志神社もあります。
 祭神は垂仁天皇と丹波道主王の娘・薊瓊入媛との間に産まれたとされる五十日足彦命(イカタラシヒコ)その人で、記紀はこの人物の後裔として石田君、春日の山君、高志の池君などをあげていますが、実は京都山城の久世(現在の八幡市岩田)にも同皇子を主祭神とする石田神社があり、大山咋命と共に祀られています。

 そして、不思議なことに五十日足彦命には『母親は薊瓊入媛ではなく、実は山背大国不遅の娘の苅幡戸辺(カリハタトベ)である(つまり天津彦根命の子孫)』という有力な伝承もあって、息長一族との接点も見え隠れするのです。
 それはさておいて、五十嵐が「イカ+アラシ」の結びついた言葉であることだけは確かですから、やはり「五十」には「イカ」の音が原点に存在したと考えたいのですが如何でしょう?(天明年間にまとめられ、文化七年[1810]に小松国康が校訂した『丹後旧事記』は五十日足彦尊を「イカガタラシヒコ」と訓み、垂仁帝の娘・胆香足姫命(イカガタラシヒメ)の『イカガ』は、京丹後市五十河そのものの意だとする)

 五十日足彦命の母親が丹波道主王の娘、つまり彦坐王の孫娘・薊瓊入媛ではなく、天御影命から分かれた阿多根命の子孫で山背国造の娘・苅幡戸辺かも知れないという異伝の存在は、垂仁帝周辺の王統譜の「混乱」に起因するものではなく、息長氏と大王家との複雑な婚姻を暗示しているように思われます。いずれにせよ、五十日足彦命は調べてみる価値のある人物と言えそうです。

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 画像は中臣氏ゆかりの恩智神社

  (終わり)


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