富雄丸山古墳考 31 七支刀の意義
(承前 高句麗王の斯由について記した『百済本記』)
倭国の使者に新羅側は真面に答える事も弁明することもなかったらしく、
神功四十九年(西暦369年)に荒田別、鹿我別を将軍とする軍勢を
半島に送り出したと日本書紀が伝えていますが、この年前後に倭国からの
侵攻があったと新羅本記には一切記述がありません。
また、この同じ年に造られたと思われる有名な「七支刀」が百済の近肖古王の
「世子」近仇首王から倭王の許に届けられたのは神功摂政五十二年(372)だとも
書紀が記していますが、肝心の百済本記には、その事実が書かれていません。
この当時の百済は国威が最も盛んで、上の画像にもあるように、近肖古王は
高句麗の平壌城を攻め、同国の故国原王(斯由)を敗死させています。
そして翌年、成安二年(372)正月、東晋に朝見、鎮東将軍に叙されたのです。
「百兵を辟く」の銘文には、勿論「吉祥」を表した意味合いも含まれてはいると
思いますが、百済側の自信の表現とも受け取れる文言です。
先に見て来た「昔于老」事件が同国沾解王三年(369)夏四月に起きていた
倭国・新羅間の重大問題だったとすれば、隣国の百済にもその動静が必ず
伝わっていたに違いありません。百済が倭国を味方に付けたいと考え、
珍しい刀などを贈ったのも頷けます。
「三韓」云々はともかく、書紀の言う新羅遠征の事実が果たしてあったのかどうか、
一連の記述は編集者たちの作文ではなかったのか、そんな気がしてなりません。
他の所では一々神様の具体名を披歴する書紀が、これだけ重大な外交場面に
登場した託宣神を、ただの「天神」としか書き留めていないのも、記すべき
肝心の神様が存在していなかった傍証のように思えます。
(続く)
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