五十 1 読みは「イ」

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(『諸系譜』より、天津彦根命の後裔、意冨伊我都命)

 少しでも古代史に親しんだことのある方なら、古事記などに書かれた文章を読みながら、同じような言葉(単語)が登場人物の氏名などに幾つも異なる時代の場面で屡使われていることに気づかれるはずです。

 その多くは数字の「八」や「五」あるいは「五十」といったものや地名、山脈河川などの地方の著名な自然にまつわるものなどですが、今回取り上げる「五十」は中でも有名人?の名前として広く使われているものです。先ず、初期王朝の大王名から見てみると、

  崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖、ミマキイリヒコイニエ)    
  垂仁天皇(活目入彦五十狭茅、イクメイリヒコイサチ)

の諱が共に「五十(イ)」を含んでいますし、崇神・垂仁帝の子供にも「五十日鶴彦(イカツルヒコ)」「五十瓊敷入彦(イニシキイリヒコ)」の名前を持つ皇子が存在し、更に次の世代には「五百城入彦(イオキイリヒコ)」という名前を持つ皇子が居たことも分かっています。

 一方、大王家と同じ位古い家系であるとされている物部の系譜にも「五十」の入った名前を持つ人物はいます。(一般的に物部氏は帝室とは異なる家系の豪族と見られていますが、実は、その祖先は同族であり、いわゆる天孫族の範疇に入る氏族です。つまり穂積氏や物部氏の祖神はアマテセスの三男である天津彦根命の子、天御影命の子孫です)

 神功皇后の頃(四世紀の後半)に活躍したとされる「五十琴宿禰」や、その弟妹の「五十琴姫命(イコトヒメ、五十功彦命の母親)」「五十琴彦命」などがそうですが、以前別ページの「阿蘇ピンク石」と景行天皇さらには息長氏の祖先を巡る旅の記事で紹介した「五十河彦」「五十河媛」が、ほぼ同世代の人名であることに注目すると「五十」の表記は、元々「イカ」と同じ意味を有する「イ」を表していたのではないかと思われるのです。

 そのような考え方を頭の片隅に置いて、更に、古代人(神)の名前を追いかけてみると、また別の世界が見えてきます。

(続く)


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