天津彦根命 4 鍛冶屋さんと神様
(承前 神武天皇の皇后は少彦名命と海神族の血をひく人です)
また「諸系譜」の東国諸国造系図には天目一箇命の息子である意冨伊我都命の母親が「針間荒田道主日女命」だと註文が添付されていますから、出雲を発った製鉄氏族の長が滋賀近江に勢力を拡大する以前に、播磨の有力者との間で姻戚関係を結んでいたのではないかと思われます。
(欠史八代の後半に吉備氏に纏わる伝承がありますが、鉄の名産地は豪族たちの力の源になったのでしょう)
一方、オオクニヌシとの国造り半ばに「常世国」に渡ったとされる少彦名命の児・玉依彦命の母親は「丹波伊可古夜姫」ですから、大和、摂津そして山城の広い地域に展開したヤタガラス一族は丹波の実力者との縁を深めていたようです(四道将軍の派遣という逸話も、これらの氏族間同志の合従連合を下敷きにした可能性があります。机上の空論ではありません)。
天津彦根命の子孫には、その他にもまだ二つの大きな流れがありました。古代氏族の中でも特筆される物部氏の源流となったニギハヤヒの後裔と、その物部氏の基盤作りの過程で濃密な婚姻関係を結んで協力し、古代祭祀の分野で重きを為した三上祝、山背国造などがそれです。
神武の皇統をついだ何代もの大王たちは、王朝の創成期の「出来事」を忘れず、最大勢力だった物部氏からは永らく后妃を受け入れていなかったのですが、孝元帝の御世になってやっと物部と山背氏の血を引く「内色許売命」が輿入れすることになり、二人の間に開化天皇が生まれます。
時代は更に下りますが丹波氏の祖である彦坐王と垂仁天皇の双方に娘を嫁がせたのも山背国造家でした。更に次の景行天皇は吉備氏の娘を皇后として迎えるのですが、同地方には先に見てきた意冨伊我都命に象徴される同族が先住し、帝室と吉備の間を取り持った可能性もありそうです。
【後書き】記事を書き終えたところで、ふと、思いだした事。
筆者は中学校時代を山陰の小さな田舎町で過ごしました。冬は、結構、雪が積もりました。
国土沿いにあったガソリンスタンドの経営者Aさんの店は「鍛冶屋」という屋号でしたが、
当時は、もう、鍛冶の仕事はしていなかったのですが、農村部にあって鍛冶職人は重宝がられたと思います。
天津彦根命の後裔たちや、同様の「手」に職を身に着けた物部氏の子孫が、
古代から中世にかけ全国に活躍の場を広げたのも、そんな「野鍛冶」のスキルのお陰ではなかったか、
そんな風に感じた次第です。
(終わり)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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