天津彦根命 3 鍛冶の神様と子
(承前 神武天皇はウマシマチと同世代です)
以下は全くの憶測になりますが、天孫族の国内移動についての一つの推理を示してみたいと思います。
若しも神武天皇の「東征」が二世紀の第四四半期(西暦175~199年頃)に行われ、彼の一族が大和の一角で地元勢力を抑えて地域の支配者になったと仮定すると、天津彦根命は神武にとっては「三世代前」の遠い縁戚の一人に相当することになります。
古代日本の一世代を何年間と考えるのかについては研究者たちによって多少異なるようですが、例えば仮にそれを「25年」だとするなら、神武と天津彦根命の間にある歴史的な時間差は「およそ75年前後」だという事に成るでしょう。
九州から先ず出雲地方に入って基盤づくりを行った天津彦根命の長子と思われる天目一箇命(天御影命と同神)は、その勢力を越国と吉備播磨の二つの方面に伸ばしたと思われ、それはオオクニヌシと沼河比売(高志国の女神)の「御合(みあい)」話にも明らかですが、播磨風土記は別な形で天目一箇命の逸話を伝えています。
ここに居ます神、名は道主日女命、父なくして、み児を生みましき。
盟酒(うけいざけ)を醸まんとして、田七町を作るに、
七日七夜の間に、稲、成熟りおえき。
すなわち、酒を醸みて、諸の神たちを集へ、
その子をして酒を捧げて、養らしめき。ここに、その子、
天目一命に向きて奉りき。すなわち、その父を知りき。
後に其の田荒れき、故、荒田の村と号く。
(託賀郡 荒田の項)
勿論この話は全国の各地にある神婚譚の一つに過ぎませんし、風土記に採用された古事(ふるごと)の内容全てが何らかの事実を反映したものだと即断することは出来ないにしても、鍛冶の神様である天目一箇命を祀る有力な集団が、現在の西脇市周辺に居た事は間違いなさそうです(同市内に式内社の天目一神社が鎮座)。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

この記事へのコメント