富雄丸山古墳考 24 短命だった仲哀帝

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承前 宮跡の碑は建っているが遺跡は不明だ)

古事記の序文で太安万侶が、神倭天皇、崇神天皇そして仁徳天皇などと並び、
『境を定め邦を開きて、近淡海に制め』と業績をたたえた成務天皇でしたが、
肝心の本文では僅か五行足らずの文言しか述べられていません。そのほとんどが
妃と子女の名前で占められ「乙卯」の年に亡くなったと言っています。

これを西暦355年とするかしないか、論議の分かれるところなのですが、崇神崩年を
320年前後と仮定するならそんなに「大外れ」の解釈だとも思えません。
(註・このブログの筆者は景行を垂仁の「弟」と考えています。従って、三人の在位を
それぞれ十五年前後と見積もれば、成務の没年は360年代半ばとなります)

日本書記は古事記が伝えた唯一の皇子・和訶奴気王(母親は弟財郎女)をも無視、
后妃を持たなかった成務は「甥」の仲哀天皇に跡を継がせたとしていますが、
彼の即位は「壬申」であったとも記録しています。この干支から仲哀は西暦372年
に大王位に就いた事になるのですが、彼は僅か九年で帰らぬ人となってしまいます。
(一書では熊襲との戦いの途上、矢に中り死亡したとも伝わる)
書記は、

  即ち知りぬ、神の言を用いたまはずして、早く崩りましぬ

と、冷ややかな記述で仲哀紀を締めくくっています。
そして記紀では、この後、息長足姫尊の登場が用意されています。
系譜上、息長宿禰王の娘という設定がなされた人物です。

  (続く)



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