富雄丸山古墳考 23 近江遷都の仕掛け人

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承前 「高穴穂宮跡」の碑、遺跡がある訳では無い)

日本書紀は景行天皇の在位を「六十年」だったと伝えているが、
彼の生涯は遠征、戦いの連続だった。九州の平定に向かったのが即位13年で
都の地に戻ったのは実に6年後の9月だった。
皇太子のヤマトタケルも景行39年から翌年にかけて東国に遠征、吉備氏
大伴氏の援軍を得て活躍するが、陣中に病を得て凱旋することは無かった。

晩年に至って四男のワカタラシヒコを跡継ぎに決めると、即位53年になって
「東国巡幸」を思いつき、2年に亘り都を離れたのだが、何を思ったのか、
最晩年の58年に至って近江へ行幸し、高穴穂宮で3年暮らしている。
この遷都について興味深い「話」が、ある神社に伝わっている。
それが滋賀県野洲に建つ兵主神社の「縁起」文で、そこには、

  景行天皇は即位58年、皇子・稲背入彦命に命じて
  大和の国穴師に八千矛神(オオクニヌシ)を祀らせ
  これを「兵主大神」と称した。
  近江、高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は、
  宮に近い「穴太」に社地を定め遷座せしめた。
  欽明天皇の御代、播磨別らが琵琶湖を渡って
  東国に移住する際に、再び遷座した。

という内容の文言が並び、景行天皇の近くに居た「皇子」の稲背入彦命が
兵主神社の創建と、高穴穂宮への遷都に深く関わっていた事が窺い知れる。
分かりやすい言葉で言い換えれば、大王を近江の地に「誘い出し」そこで
亡くなるのを看取ったのが稲背入彦命だったのかも知れない。
深慮遠謀とは、こんな事を言うのだろう。

古事記は崇神天皇以降の大王たちの「没年干支」を、それぞれ記録しているが
何故か「垂仁、景行、神功皇后」の3名については一切口をつぐんでいる。
何か、書くと都合の悪いことがあったのだろう。

  (続く)


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