天津彦根命 1 大国主のモデル?
(「諸系譜」などを参考にした古代氏族の関係略図)
サノたち兄弟の一行が古里に残る家族や地域の顔なじみたちとの別れの宴を終え、決して二度とは故郷の土を踏まない覚悟で生家を後にしたのはいつの頃だったのだろう?
日本書紀は神武天皇が九州の故地を出立したのは「数え年四十五」の時だったと記録しているが、彼は大王として「七十六年」もの間君臨していたのだから、人生の三分の一を少し過ぎた青年期の只中にあったと考えても良いだろう。
筆者にでも理解できる引き算を利用するなら、神武は137年の生涯を送ったのだから(「137-45-76=16」)およそ16年間もの歳月を費やしてヤマト入りを果たした勘定になる(古事記は127歳で崩御とする)のだが、その辺りの事情について古事記は、
日向を立って先ず筑紫へ(宇佐) 岡田宮で1年
安岐国 多祁理宮で7年 吉備国 高島宮で8年
それぞれの宮に留まり「兵、船、食糧」を十二分に蓄えた後、大和を目指したのだとツジツマ合わせの記述を弄しているが、それだけ周到な準備をしながら、何故、浪速国の白肩津でナガスネヒコの軍勢に簡単に排撃されたのかについては「日の御子」が太陽に向かって進軍したのが良くなかったとだけ苦しい言い訳をしています。
日本書紀は塩土老翁に『東には美しい国がある』と聞いた神武帝が『天磐船に乗り、飛び降ったのはニギハヤヒという者だろう』と応えた場面を即位前紀の冒頭に用意していますが、本当にそれだけの情報を事前に得ていたのだとすれば、彼らの「東征」は、もう少し円滑に進められただろうと思うのは歴史の素人だけで、王者の征服譚には胸躍る大活躍の筋書きが不可欠なのかも知れません、それはさておき。
さて、上の図は旧HPオノコロ・シリーズの主人公の一人である天津彦根命の後裔を一覧にした略系図ですが、筆者は記紀が「神様」として扱っている同命を「オオクニヌシ」の実体と推測し、更に、この神様と神話に出てくる「天若日子」もまた同じ人物であると考えています。
そして、人皇初代神武天皇も、西暦170~180年頃にヤマト入りを果たして王権の基となった実在の人として捉えています。なお上の系譜は国立国会図書館が収蔵している『諸系譜』などを参考に作成したものですが、推定の部分も当然含まれています、飽く迄も一つの参考としてご覧になって下さい。
(続く)
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