秀吉と忠臣蔵 6 孟子の六十三代目

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承前 「仮名手本忠臣蔵」十段目)

 そうです、肝心のお話をしなければ、このページを読んで頂いたご利益がありません。太閤・秀吉が『狭い日本にゃ住みあきた。世界が俺を呼んでいる』と言ったかどうかは分かりませんが、とにもかくにも唐・天竺まで自ら軍を進め、世界No.1になる目的で朝鮮に出兵、その時、一人の明国人が捕虜となりました。

 その人は、中国・淅江省杭州武林の出身で孟二寛というお医者さんで、たまたま明国から派遣されていた援軍の従軍医師をしていたため運悪く戦時捕虜となり、日本まで連れて来られたのです。もともとが医師ですから、本人の素養も十二分にあったのでしょう、故郷の地名に因んで武林の姓を名乗り、暫らくして渡辺家の婿養子に迎えられました。

 この武林治庵(渡辺治庵)の子息・渡辺平右衛門には二人の男子があり、治庵の孫である次男は祖父の姓を名乗り武林唯七といいました。さぁ、ここまで来たら、もう、皆さんも三題話のオチが分かったでしょう。

 武林唯七隆重は、播州赤穂の浅野内匠頭に仕え馬廻り・中小姓の役職を頂いていた熱血漢で、遠い始祖が孟子(63代目)であることに強い誇りと生きがいを感じていましたが、そこに降って湧いた刃傷事件。昼行灯の大石は主君の仇討ちよりも、御家の存続第一と考え、あらゆる手段を使って浅野家の滅亡を防ごうと試みるのですが、堀部安兵衛や武林などの急進派は、城明渡しよりも籠城・徹底抗戦を主張、ことごとく対立していたのが実情でした。

 嘆願を続けていた浅野家存続が不可能となった元禄十五年七月十八日(大石に内匠頭の嫡男・浅野大学の広島浅野藩お預け決定の知らせが届いたのは同月二十四日)以降、大石は討ち入りの準備を淡々と進め、十二月十四日を迎えることになったのです。

 吉良邸に討ち入った旧赤穂藩士は四十七名(イロハ四十八文字の「ん」を除いた四十七と同数ということから『仮名手本忠臣蔵』の題名となった)、武林は間十次郎の一番槍に続き吉良上野介に初太刀を浴びせかけ、面目をほどこしました。
  享年32歳、刃性春剣信士の戒名と『仕合(しあわせ)や死出の山路は花さかり』の辞世に彼の人柄が偲ばれます。主君の浅野内匠頭が、吉良に切りつけた時吐いた『この間の遺恨、覚えたるか』の遺恨が何であったのか、大石は親しい人物に『たかが喧嘩』と漏らした真意とは?、討ち入りの4カ月前になって幕府は何故、吉良の屋敷を本所へ移転させたのか、などなど刃傷事件にまつわる謎は多いのですが、皆さんも一度歴史の不思議解明に挑戦されては如何でしょう。

 話のついでにもう一つ、旧ホームページでは『雑学』歴史コーナーでお稲荷さんを取り上げ、そこで渡来系の秦氏を紹介していますが、忠臣蔵、ではなく吉良邸討ち入り事件の中心人物である大石内蔵介と親交があり、徳川家をはじめ諸大名とも交流があり、吉良家にも学問(国学)指南として出入りしていた荷田春満(かだ・あずままろ,1669~1736)は伏見稲荷神社の神官(秦・大西家から荷田家の養子となった人物)で、言い伝えでは『討ち入り決行日に吉良が在宅しているかどうか』の確認も、春満からの情報が役に立ち、討ち入りの図上訓練をするための吉良邸略図も春満が提供したのだとか。
 歴史は、実に様々なところで人と人を結び付けているものです。

  (終わり)


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