秀吉と忠臣蔵 5 誇大妄想
(承前)
足利義昭にしてみれば「ボロは着てても何とやら」落ちぶれたとはいえ、今更、秀吉に誇りある「源氏長者」の名跡を継ぐ資格なぞ与えては末代までの語り草になると考えたのか、そうでもなかったのか、ともかく秀吉さんの希望は叶いませんでした。
そこで最期の手段、自ら『藤原氏』を称してお上から関白の官職を賜った。何故「藤原氏」なのかと言えば、律令制の昔から平安時代を経て、秀吉たちの時代まで、関白の地位は名門・藤原氏一族が独占してきた官職だからであり、武士であり、ただの人である者が関白の地位に就いたのは勿論秀吉が日本で初めて。
つまり藤原一族以外で関白となったのは秀吉、秀次の二人だけなのです。
「太政大臣」の官職も手中にし、事実上、日本国ナンバーワンとなった秀吉、織田信長から教わっていたかも知れない「外国」への関心の表れか、徳川家康(とくがわ・いえやす,1543~1616)の処遇(関東移封)に目安もついた天正17年(1589)対馬藩主である宗義調(そう・よししげ,1532~1589)に、とんでもない命令をくだしたのです。
それは『朝鮮国王に京都まで挨拶に来させろ。もし、来なかったら宣戦布告とみなす』といった内容のもの。こんな要求が通るわけもなく、非戦派の秀吉側近や地方藩主たちの戦争回避の努力も空しく、秀吉は遠征軍の陣立てを自ら決定、何等名分のない出兵を二度にわたり続けることになったのですが、彼の狙いは何だったのか?その手掛かりとなる一つの文書が残されています。
天正20年(1592,12月に文禄と改元)5月18日、太閤・秀吉は、当時、まだ関白の地位にあった甥の秀次に宛てて次のような覚書を送っています。(前田家文庫『古蹟文徴』より)原文は筆者の文章よりも、更に読み難いので意訳します。
秀次、お前を大唐(明国)の関白に任命するから準備をしておけ
天皇(後陽成)には明国皇帝として北京に遷都してもらう
秀次が明国の関白になった時は、羽柴秀保か
宇喜多秀家のどちらかを日本国の関白にする
天皇が明国皇帝になった時は、
皇太子か皇弟のどちらかを日本国天皇に即位させる
朝鮮の総督には羽柴秀勝か宇喜多秀家を任命する
正に言いたい放題すき放題の憾が否めませんが、これが秀吉の本音だったとするなら、彼は大唐(明国)をも征服する、という妄想に取り憑かれていた、と考える他ありません。
また、未見ですが、同じ日に京都の住人で山中橘内という人物に宛てた書状には、秀吉自身が『天竺(インド)まで攻略する』つもりだとあるそうですから、案外、本気で世界制覇を夢見ていたのかも知れません。それはさておき、忠臣蔵はどうなった?
(続く)
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