富雄丸山古墳考 22 漂白する大王たち

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承前 桃太郎は鬼退治に出かけます)

吉備氏の起源が大和にあったのか、そうではないのか専門家たちにも中々
解明が難しいようですが、日本書紀などによれば、

  孝霊天皇の妃、倭国香媛(ハエイロネ)が産んだ彦五十狭芹彦命

の亦の名を「吉備津彦命」と言い、同妃の妹・絚某弟(ハエイロド)が
産んだ彦狭嶋命、稚武彦命兄弟の弟稚武彦命が吉備臣の始祖だと言っています。
姉妹の妃は磯城に住んだ八重事代主命の後裔ですから、海神族の三輪氏
近い関係だった事が容易に想像されるところです。また、書記は日本武尊
系譜の中で、

  吉備武彦が娘・吉備穴戸武媛が武卵王と十城別王

の二人の王子を生み、兄の武卵王が「讃岐綾君」の始祖となったとも記し、
吉備氏と息長氏が早くから姻戚関係にあった事を示唆しています。
少し解説が必要だと思いますが、ここに名前の上がった「武卵王」という人は
九州に故地を持つ天孫族の一人で、四国に基盤を持つ豪族でした。そして、
この王の子供が垂仁天皇の娘婿に迎えられた稲背入彦命でした。

崇神天皇の「四道将軍」派遣に象徴される大和王権の地方掌握の事業は
垂仁の次に大王となった景行天皇の代で大いに躍進する訳ですが、
外征と鉱物資源探査に重きを置いた政権は、肝心要の大和本国を留守にして
遂には跡取りのヤマトタケルを失うことになります。

大王家の「漂流」は留まることなく景行は都を近江に遷して程なく死去、
後を継いだ成務は后妃も迎えず、宮の在り処さえ知られない有様でした。
更に混迷は続き、景行の孫・仲哀天皇は壬申の年(西暦372年)に
即位はしたものの、翌年何故か角鹿(つぬが、福井)へ出向き行宮である
「筍飯宮」を建てかと思うと同年3月「南国」を巡狩するのです。

  (続く)


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