秀吉と忠臣蔵 4 栄光の日々と落日

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承前 太閤さんの肖像)

 天正十一年(1853)大阪城を築き、その威容でナンバーワンたる存在振りを国内外に誇示、もう、怖い者なしの天下人となった秀吉に欠けているものと言えば「称号」だけ。そこで彼は考えた、のですが、その前に恒例の年表で、タナボタの経緯を見てみる事にしましょう。
(直接この項と関係ありませんが、1594年春、あの大泥棒の石川五右衛門が処刑されています)

西暦年号主な出来事
1582天正106月 明智光秀謀反により織田信長死去 山崎の戦いで秀吉勝利
1583同114月 賤ケ谷の戦いで秀吉勝利 柴田勝家自害
1584同1212月 秀吉、徳川家康と講和
1585同137月 秀吉、関白に叙任される
1586同1412月 秀吉、太政大臣に叙任、豊臣姓を賜る
1588同167月 秀吉、刀狩令を発する
1591同192月 千利休が自害、12月 秀次に関白を譲り、太閤となる
1593文禄28月 豊臣秀頼が生まれる
1595
同4
7月 関白の秀次が自害、翌月一族も処刑
1596同59月 朝鮮との和平交渉決裂、再度の出兵を決定
1598慶長38月 秀吉死去 五大老が半島遠征軍に撤退命令

 秀吉は生涯唯一の主君であり師である織田信長の考え方を踏襲していたから「征夷大将軍になれなかった」のではなく「征夷大将軍になろうとしなかった」のだと唱える史家があるそうですが、源氏の本家筋にあたる足利義昭(あしかが・よしあき,1537~1597)に養子縁組を申し込んだという話が事実なら、やはり彼は大将軍の名称に固執していたと考えたほうが分かりやすいでしょう。

  (続く)


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