富雄丸山古墳考 21 吉備氏から出た皇后

seimutennou-ryo.jpg
承前 成務陵の真隣が日葉酢媛陵、google)

第十代崇神天皇の没年が「戊寅」(古事記、318年)、そして応神天皇の即位を西暦390年と
するなら、この「72」年の間で垂仁、景行、成務、仲哀と「四代」の大王たちが入れ替わり
立ち替わり政権を執ったことになります。あの有名な神功皇后も「一代」として数えるなら
実に「五代」もの代替わりがあった勘定になるのですが、それは素人目にも「窮屈」すぎます。

恐らく応神の即位に伴う帝室系譜の大幅な「編集」があり、その影響を受けたものなのでしょう。
垂仁および景行の后妃や子女たちの「実体」については別のページで詳しく述べてきましたから、
ここでは触れません。

一般的に「謎の四世紀」などと呼ばれる西暦三〇〇年代ですが、それは外国の資料に当時の
倭国の動勢が伝わっていなかったに過ぎず、国内では上で見たように大王たちの権力移譲が
淡々と、あるいは劇的に行われていた訳です。

景行天皇は「子沢山」の大王としても知られた人ですが、この方の時、初めて吉備生まれの
女性が皇后に立てられています。それが播磨稲日大郎女姫で、日本武尊の母親として歴史に
名前を残した吉備氏出身のお姫様です。
(ヤマトタケルは播磨の地で大きくなったのかも知れません)

古事記は同姫の父親を「吉備臣等の祖、若建吉備津日子」としていますが、このブログの
読者の方なら、先代垂仁天皇の皇女・阿邪美都日売命が「播磨別の祖」とされる稲背毘古王
稲背入彦命)の妻となった事実をご存知でしょうから、この大王家と吉備氏の「縁組」を
一体誰が何の為に仲介したのか、直ぐに気付かれたことでしょう。

景行帝は優秀な日本武尊と同様、各地を巡回し大和政権の拡張に精を出します。また積極的に
資源開発にも努め、最終的には自分の「宮」も近江に遷すこととなりました。
滋賀の高穴穂宮に住む事わずか三年、景行は大和に戻ることなく同地で没しました。
不思議な事に、記紀は彼の没年を一切語ろうとはしません。

  (続く)


この記事へのコメント