秀吉と忠臣蔵 3 征夷大将軍の条件
(承前 市川団十郎が演じる大星由良之助)
豊織時代の呼び名で一括される1500年代後半については、皆さんも日本史の時間に、それなりにお勉強をされているでしょうから、ここでは詳しく触れませんが、織田信長(おだ・のぶなが,1534~1582)が本能寺の変で斃れ、いわばタナボタ式に天下人の地位を手に入れた秀吉。
力づくで他の勢力を押さえ込み、なんとか全国の大名に睨みを利かせられるようになると、当然、自分の地位が公=朝廷にも認められた正当なものであることを内外に示したいと考えました。
一番良い方法は、武家政権の証である『征夷大将軍』に任じられて、幕府を開くことなのですが、なんでも出来るはずだった秀吉にも弱点があったのです。それが出自。ところで、この征夷大将軍、正式には
淳和奨学両院別当 征夷大将軍 源氏長者 馬寮御監
という長ったらしい名称が表しているように、武家の棟梁はイコールで源氏の親玉ということであり、我が国に古来からある四つの氏・四姓(源平藤橘)の中でも源家の当主が専ら称してきた職名なのです。
因みに、あの徳川家康の官位は「征夷大将軍・左近衛大将・左馬寮御監・源氏長者・淳和奨学両院別当・従一位・太政大臣」でした。
(源氏以外の出身の者が征夷大将軍となっていた例は古代にあります。また、鎌倉時代には「親王」が征夷大将軍になっているケースもあります)
だから、秀吉が大将軍になろうとするなら(彼の姓が何であれ)、一番手っ取り早い方法は「源氏の棟梁」として認められる存在になること、だった訳です。そして、事実、彼は、そうしようと試みました。見事に失敗はしましたが…。
父親(木下弥右衛門)が足軽だった秀吉(足軽ではなく百姓だったとの説もある)は、天文6年(1537)此の世に生を受け、14歳の年にひとり立ちし行商などをしながら諸国を巡り歩き、生涯の主君・織田信長に邂逅します。
よく、お芝居に出て来る「草履取り」や「馬屋番」などの下積み時代の永禄4年(1561)浅野長勝の養女・ねねさんと目出度く祝言をあげ、この時から木下藤吉郎を名乗ります。あとは講談・歌舞伎芝居でもお馴染みのようにトントン拍子に出世街道まっしぐら、40歳にもならない天正元年(1573)には、なんと十八万石の大名に大出世、羽柴の「姓」を初めて名乗る事に。
信長暗殺事件の年、秀吉は備中・高松城を水攻めにしていた最中だったのですが、例の『大返し』で急遽帰京「山崎の合戦」で宿敵・明智光秀(あけち・みつひで,1528?~1582)を打ち滅ぼした後、信長恩顧の柴田勝家(しばた・かついえ,1522~1583)、滝川壱益そして織田信孝などを相次いで撃破、天下一の基礎固めを着実に行ったのです。
(続く)
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