富雄丸山古墳考 20 応神と垂仁
(承前 『住吉大社神代記』に見える垂仁天皇の没年干支)
古事記は崇神天皇の没年を「戊寅(318)」と記録する一方で、垂仁天皇が
後の皇后である氷羽州比売命の妹、阿邪美能伊理毘売命(薊瓊入媛)を娶って
伊許婆夜和気命 阿邪美都比売命
の二人の子をもうけ、皇女は「稲背毘古王」に嫁いだとも記していましたが、
この皇女の婿となった稲背入彦命こそ、後の応神天皇の実父であると筆者は
想像しています。
垂仁天皇は前の皇后の兄である沙本毘古王の反乱を修めた後、数年して
新たな皇后や妃を迎えたと考えられるので、阿邪美都比売命の生年は西暦の
320年代の前半、その女性が成人して伴侶を迎えたのが同340年代前半頃
だったと仮定すると、その息子である応神の誕生も350年前後とみても、
決して不自然ではないと言えます。そして、重要な事がもう一つあります。
当時は帝室でも妻問婚だったはずですから、垂仁の娘は当然、磯城の玉垣宮内
に住み、その館で生活し、子供たちも育てていたでしょう。
つまり応神は、ある程度成長するまでの間、垂仁の宮で暮らしていた訳です。
具体的に「何歳」頃までなのかは分かりませんが、彼には兄弟姉妹も居たので
案外遅くまで母親の許に居た可能性が高いと思われます。
小説であれば、まだ幼いホムツワケが大王一族と生活して行く中で『おれも、
いつかは大王に成りたい』と呟く場面を描く処です。
稲背入彦命は日本書紀が「播磨別」の祖であると伝えているように、播州で
勢力を誇った天孫族の一人です。古代氏族の研究、特に系譜の分野で多くの
実績を持つ宝賀寿男氏は、彼が建緒組命の孫、武貝児命の子であると分析し、
その大元は天日鷲翔矢命(少彦名命)の後裔・宇佐津彦命だと見ています。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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