富雄丸山古墳考 16 古墳築造と物部氏
(承前 桜井市纏向には発生期の古墳が幾つもあります)
大和政権が実力を身に着けて、支配地域の拡大を図ろうとした時期と、
纏向型前方後円墳の築造時期は、ほぼ重なり合っているに違いないと睨んで、
それが、どの大王の時代なのかと想像する時、欠史八代の后妃一覧が
一つの手がかりになりそうに思えます。
懿徳を除く初期の大王たちは、大和に古くから基盤を持っていた海神族の娘たち、
具体的には事代主命の娘や孫娘たちを配偶者とすることで、生活の安全と
安定、拡充を図って来たのですが、第八代とされる孝元天皇の代になって、
帝室の後宮に大きな変化が生まれます。
孝元の皇后に選ばれた女性は磯城縣主など海神族の出身ではなく、
天孫族の一員で神武天皇に先駆けて大和入りを果たしていたニギハヤヒの子孫、
鬱色謎命(うつしこめ)でした。
この女性は神武に「主君」の座を明け渡したニギハヤヒの児・宇摩志麻治命と
活目邑五十呉桃の娘・師長媛との間に産まれた彦湯支命の子孫の一人で、
『先代旧事本紀』は彦湯支命の妻が天津彦根命の後裔で近江三上氏の
娘の淡海川枯姫だったと記録していますから、草創期の穂積・物部氏の血脈を
受け継ぐ天孫系の皇后だったと言えます。
孝元の跡を継いだ第九代開化天皇も、また同様に物部氏の娘である
伊香色謎命(いかがしこめ)を皇后に迎え、生まれた皇子が崇神天皇です。
書記は、この女性を先代孝元の「妃」だったと言い、開化紀は「庶母(ままも)」と
表現しているのですが、この「異世代婚」の実体は恐らく、孝元天皇等の系譜に
大彦命や彦太忍信命(竹内宿禰の祖父)を、更には開化天皇の子孫として
幾人かの大王たちの系図を編集する過程で生まれた副産物の一つでしょう。
その証左となるものが書紀の即位年の干支に見られ、第六代以降、
孝安 己丑 西暦269年
孝霊 辛未 251年
孝元 丙亥 267年
開化 甲申 264年or324年
崇神 甲申 264年or324年
など、混乱を極めています。なお、崇神天皇については古事記が、その没年を
「318年」と記載していますが、何れの記述が事実に近いのかは不明です。
ただ、欠史八代の最後半頃には大王家そのものに余裕が生まれ、事代主命の
子孫たちに頼らず、天孫族内で通婚を繰り返すことが当たり前になり、それまで
手付かずだった三輪山近くの纏向で大型古墳のモデルとなる、纏向型前方後円墳を
造り始めたのではないか。そう考えると箸墓古墳の被葬者が崇神天皇であっても
おかしくないと思えるのです。
(続く)
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