富雄丸山古墳考 15 書き換えられる系譜
(承前 磯城は古くから栄えた場所だった)
古代の豪族たち、中でも帝室の系譜は疑いだせば「きりが無い」というのが実態ですが、
欠史八代の中で次に「問題視」されるのは第七代の孝安天皇という人です。
日本書紀は、この天皇が「己丑」の年に即位したと記していますから、それに見合う
西暦年を探してみると「269年」が最も無難な数字のようにも思えますが、この人は
「102」年間在位し、享年137で他界したにも関わらず、実の「姪」押媛との間に
大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)一人しか子供を授からなかったとされています。
書記の一書は、この天皇に嫁いだのは、
磯城縣主 葉江の娘・長媛 或いは十市縣主五十坂の娘・五十坂媛
であったのかも知れないという異伝も伝えているのですが、古事記は、
姪・忍鹿比売命を娶って、大吉備諸進命、
次に大倭根子比古賦斗邇命
の二人の子供が産まれたと伝えています。初めに生まれた皇子は、その名前から
大和の初期王権と吉備勢力との繋がりを想像させますが、実体は不明です。
一粒種の「孝霊」を系譜上皇統に「つなげるため」だけに存在していたかのような
七代目は、やはり新撰姓氏録が一つの後裔氏族も上げていない事実から見て、
架空とは言えないまでも、実際には即位していない人物がモデルとなって、
帝室の「親子リレー」系図作成を修飾したものだと言えるかも知れません。
だとするなら、ここでも又系譜は一代分縮められることになるでしょう。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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