秦と藤原 10 阿武山に眠る貴人

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承前

 昭和九年、京都帝国大学は摂津茨木と高槻の境界にある標高210メートルの阿武山(あぶやま)山頂に、新たな地震観測施設を建設しようと計画し、必要な更地を確保するため土砂の掘削を連日行っていました。四月二十二日、工事が進む中、作業員がレンガ、瓦そして大きな石の層に突き当たり、これを取り除いたところ古代人の墳墓、そして柩が発見されたのです。

 大阪朝日新聞が『貴人の墓』としてスクープし、考古学ブームに火をつけた遺体は錦をまとい、墓には金の糸が多数散乱、ガラス玉を編み込んで作った「玉枕」に横たわっていた被葬者は六十歳前後の男性と断定されました。
 この「阿武山古墳」が藤原鎌足の墓ではないか、金の糸は「大織冠」の名残ではないか、と言われていることは皆さんもご存知でしょう。

 『周辺から出土した須恵器が七世紀前半のもの』である点から、鎌足の墓説が100%証明された訳ではありませんが、目印となる盛り土を一切用いず、千三百年にも渡りあらゆる盗掘から免れた超一級の墓が、三島を支配した豪族と何らの縁も無い人のものだとする根拠はどこにもありません。(昭和62年になって、発見当時に撮影された被葬者のエックス線写真から、彼が「腰椎」などを骨折する大怪我を負い、それが死因の一部になっていたことも判明しています)

 論旨をことさら混乱させるつもりは無いのですが、ここで、もう一つ気がかりな存在が浮上します。藤原鎌足の墓ではないか、とされる阿武山古墳のほぼ真南約3.0kmの所に在る「継体天皇陵」古墳がそれです。考古学的な研究が進み、古墳を囲むお濠から見つかった埴輪の年代測定などから「継体陵」は五世紀中頃に築造されたもので、西暦531年に亡くなったとされる継体天皇の陵としては年代が一世紀余り合わないことが明らかになってきました。

(この古墳は、所在地から太田茶臼山古墳とも呼ばれています。全長226m)そして、この古墳の北西1.2キロの所に古代のハニワ工場(新池)があり「継体天皇陵」古墳と、真の継体陵だと推定されている今城塚古墳(全長350m、二重の濠、国内最大の家型埴輪が出土、六世紀中頃の築造)で使用された各種のハニワを製造していたことが分かったのです。若し、茶臼山古墳が「天皇陵」でないのなら、そこには誰が葬られているのでしょう?筆者には、一つの推理があります。

  (続く)


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