富雄丸山古墳考 13 綏靖と安寧は兄弟
(承前 画像は桜井市にある纏向石塚古墳)
前回、いわゆる「欠史八代」に関する日本書紀の記述にある「在位年」を参考にし、
更には「四倍歴」という考え方も導入するなら、第十代崇神天皇の即位したであろう
時期は、おおよそ西暦310~320年頃ではないかと仮定しましたが、そうすると
一つ不都合が生じてきます。
と言うのも現在、一般的には定型型の前方後円墳が築造され始めたのが三世紀末頃で
有名な箸墓古墳が、その最初の一基だと看做されていますから、筆者を含めた考古学
好きが「真の崇神天皇陵」だと考えている同墳の築造年代と「およそ一世代」近くの
誤差が生じる事になってしまうのです。
ただ、幾つもの「条件」を加味した「欠史八代」の在位年数が絶対という訳ではなく
その「すべて直系(親子)」で繋いだ系譜自体に問題が無いとは言えません。
特に不自然なのは初代神武の跡を継いだ第二代から四代の三人については、
それぞれの在位年と享年が以下のように「短い」点です。
(神武以下、九人の在位年数の平均は61年)
綏靖天皇 在位33年 享年84(古事記では45)
安寧天皇 在位38年 享年57(古事記では47)
威徳天皇 在位34年 享年不明(古事記では45)
また綏靖は神武が大和入りを果たした後で生まれている人であり「48」の時に
父親が亡くなり、その翌年即位して一年後五十鈴依媛を皇后に立てたと書紀が
記録していますが、この女性は彼の母親の妹(姨=おば)だともあります。
先に上げた略系図を参考にしてもらえば分かりやすいと思いますが、綏靖の
異世代婚は、
事代主命の娘である、実の叔母を娶った
ことになり強い違和感を抱かせる内容です。想像ですが、これは大王たちの系譜を
「無理矢理」すべて「親子」の関係で繋いだ事による副産物であり、実際には
父親の神武が媛蹈鞴五十鈴と五十鈴依媛の姉妹を娶り、それぞれに綏靖と安寧の
男子が生まれていたのだと考えられます。二人は兄弟だったのです。
従って「八代」の中味も、ここで「一代」分水増しされていたことになります。
(註・「新撰姓氏録」には綏靖の後裔は一人も記されていない)
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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