秦と藤原 9 三嶋は鎌足の領地
(承前)
では「神魂命」と「津速魂命」が本当に「兄弟」であったとしたら、どういうことになるのか!なに、簡単なことです。つまり、鴨一族は『祖先を同じくする藤原氏の近い親戚』であり、三島族は、その鴨族と『親密な姻戚関係』にある『遠い親戚』だと藤原氏の系図が語っている訳です。果たしてそうなのでしょうか?
よく知られているように皇極三年、朝廷から中臣家本来の仕事(祭官)に就くように求められた中臣(藤原)鎌足(ふじわら・かまたり,614~669)は、
その役職に就任することを固く辞して摂津三島の別邸に退いた
とされ、その死にあたっては、
初め、摂津国安威の地に葬られた
と伝えられています(「安威(あい)」は現在の茨木市に属する三島の地です。かつては染物の原料となる「藍」が多く取れた事に因むとされています。また『多武峰略記』は墓地を山階だとする)。そして、彼の死因が、
山科の野で狩の途中、落馬して負傷した
ことであったことは有名です。人は、それも大きな権力を手に入れはしたものの、尚「政敵」と目される人々が周囲に居た場合、彼は、どのような土地を「避難所」として選ぶでしょう。また、緊張の連続から開放され、真の自由な時間を得たとき、その人は、どのような場所で「憩い」たいと望むでしょうか。
何れの場合でも、その当事者は「安全」を最優先し、身に危険が及ばない場所、つまり己の影響力が最大限に発揮できる場所を選択するに違いありません。『藤氏家伝』は鎌足の産まれ故郷を大和国高市郡としていますが斉明天皇三年、鎌足が自らの住まいを築いた所は「山科の陶原」(陶原の館)であり、だからこそ彼は心ゆくまで「山科の野」で狩りを楽しんでいられたのです。(この陶原の地には山階精舎と呼ばれるお堂も建立され、後、移転して興福寺になったと言い伝えられています)
では、鎌足が中央政界での実質的なクーデター(乙巳の変)を目論んでいた時期に「引きこもっていた」「三島」の地に、どうして彼の「別邸」が設けられていたのでしょう?。難しく考えることはありません。三島が鎌足の強い影響下にあった(もっと言えば、三島は鎌足の領地だった)と考えるのが妥当です。
(続く)
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