写楽たちの銭湯 11 髪結床からの推理

toko-kumiyashiki.jpg
承前 上の画像は中村静夫氏の作成によるもの)

前回紹介した「矢場」近くの湯屋は上の画像の右端にあったもので、
中村氏が極めて詳細に編集復元した「嘉永六年」時の組屋敷図にも、
「髪結床」の文字が見えています。

斎藤与右衛門たちが暮らしていた八丁堀地蔵橋という場所は、
奉行所に勤務している与力、同心たちと町人が混在しながら生活していた
江戸でも珍しい地域でした。
そして東側を流れる亀島川から引き込んだ堀(水路)が西から入り込み
丁度、地蔵橋の袂あたりでL字型に流れを変え、組屋敷内を少し南に進んだ後、更に
もう一度九十度曲がって七軒丁の前を西に流れる構造になっていました。

上の部分図でも、その堀河の流れに沿って地蔵橋と七軒丁西詰で、
それぞれ「店」を構えた髪結床が営業していたことが分かります。(赤丸印)
川岸にあった矢場前の湯屋と同様の銭湯が、地蔵橋の近くと七軒丁にもあったのでは
ないかと思われるのですが、資料として確かめられるものはありません。

組屋敷内の堀は地蔵橋の「長さ」が「六間(凡そ10m)」あったと言いますから
結構広い川筋だったと考えられるのですが、七軒丁のあった場所は「埋め立て」が
行われていましたから、川幅を大幅に削られていたのかも知れません。
能役者の斎藤与右衛門という人物は、江戸期に刊行された『武鑑』でも名前が
掲載されている実在した人で、彼は長く「七軒丁」に住んでいました。

 (終わり)


この記事へのコメント