写楽たちの銭湯 10 矢場近くに在った湯屋
(承前 「トコ」に挟まれた蓬莱湯?)
やっと確かな資料を見付けました。やはり、これまでの推理は間違っていなかったようです。
与力だった原胤昭の回顧録にあった文章を元にして、彼の幼馴染だった今泉君の家を
東に進み、矢場(武芸の練習場)に沿った「ゆうれいヨコ丁」を更に東進むと、
そこは亀島川の「河岸」に突き当たるのですが、八丁堀にあったと言われる銭湯の一つが
その岸に沿うように建てられており、店の両側にはちゃんと「床屋」が二軒あります。
ここであれば、いざという時には川の水で消火活動も十分に行えるであろうし、
何より湯を沸かす燃料となる「廃材」などを舟で運び込むのにも便利です。
組屋敷の上水設備図からは、この直ぐちかくに大きな井戸があったことも分かっていますから、
探し続けて来た「湯屋」がここにあったことは間違いなさそうです。
ただ、これまで参考にして来た『洗場手引草』には、
文政十二年三月三日の佐久間町大火によって、
一番、二番(八丁堀)、三番、九番組内の
湯屋百二十六軒がすべて焼失した
考えられる矢場前の「蓬莱湯?」が、火災後に、同じ場所に再建されたのかどうか、
については良く分からないというのが正直なところです。
原の實の兄で、やはり町与力だった佐久間長敬も『嘉永日記抄』の中で、
組屋敷内の風呂場に行くにも、両刀さしなり。
湯上りの反物、糠袋、あかすり、手拭など小脇に抱え行く。
と記述していますが、他の銭湯が何処にあったのか興味は尽きません。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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