写楽たちの銭湯 9 湯屋の代金五百両
(承前 『守貞謾稿』に記された江戸の銭湯)
大坂生まれの商人で喜田川守貞(本名・庄兵衛)という人が江戸の末期、天保八年(1837)
から明治維新にかけて記録した見聞録『守貞謾稿』で紹介された江戸の湯屋の
様子を描いたものが上の画像なのですが、一番奥に大きめの井戸があって、
その直ぐ手前に男女別の浴槽が並んでいます。
旧江戸幕府から維新政府に引き継がれた文書類は極めて多数あるのですが、
都の関係者が調べた町方の記録の中に、文政三年(1820)三月付けで、
浅草元鳥越町にあった湯屋の株(営業権)を売買した時の証文があります。
それによれば、その銭湯は、
間口五間半 奥行十三間 二階建て
の建物だったことが分かるのですが、商売道具一式込みの値段は五百両だったそうです。
今のお金に換算すれば「数千万円」といったところでしょうか。
尺貫法など知らない読者のために、上の建物の敷地がどの位の広さなのかを言うと、
五間半=10.5m × 13軒=23.5m
ですから「およそ250㎡」ということになります。
この項で扱ってきている江戸町奉行勤務の同心たちが拝領している土地が
一人当たり「約100坪 300㎡」だったようなので、この程度の湯屋を
建てるためには、同心一人分程度の土地が必要だったことになるでしょう。
『守貞謾稿』は天保期、江戸には「五百七十戸」の風呂屋があったとし、
『洗場手引草』は八丁堀内に「二十を超える」湯屋があったと記録しているのですが、
まだまだ納得できる資料には巡り合えていません。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

この記事へのコメント