写楽たちの銭湯 8 幽霊横丁発見

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承前 地蔵橋から見て南側の「矢場」横が「ゆうれいヨコ丁」)

江戸も後期になると出版業が大変盛んになり、町方で商いをする人も当然増えます。
商業が盛んになり取引が拡大すれば人々の活動する領域そのものも広がり、
お江戸で暮らす人たちの間で細かな地域情報を求める要望も多くなったものと思われ、
その様な経済化社会を背景にした「地図」「細見図」の類が次々刊行されます。
その幾つかはネットや図書館等で閲覧が可能ですが「幽霊横丁」を記載したものは
『江戸切絵図』俚俗八丁堀、霊雁島、箱崎と題された物だけのようです。
(註・江戸期に刊行された物ではなく、ずっと後になって復元された切絵図)

上の画像で確認できる通り、浮世絵師の東洲斎写楽ではないかと見られている、
阿波徳島藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛たちが暮らしていたと考えられている
「八丁堀地蔵橋」のすぐ南側にあった「矢場(鉄砲角場)」に沿った道路が、
かつて「ゆうれいヨコ丁」の名称で呼ばれていました。

この道は、奉行所与力・原胤昭が昔を回顧した文章の中で述べていた、
幼馴染の今泉也軒の自宅の「直ぐ前」の道に通じている生活道路であり、
その先には「ドブ湯の横町」があったはずなのです。
ただ、八丁堀の東を流れている亀島川の「河岸」に建物らしきものは見当たらず、
図の中にある「大井戸ヨコ丁」の文言が、近くを上水の幹線が走っていたことを
示唆している様にも思えるのですが…。
もう一度、資料を探してみることにします。

 (続く)


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