写楽たちの銭湯 7 江戸の水事情
(承前 今泉同心の自宅から東に進み河岸に抜ける二つの通り)
徳川氏が関東入りをして、精力的に進めた政策が水治事業だったと言います。
もともと湿地帯のような所であったため、普通に井戸を掘っても、湧き出す水は
海水が混じった劣悪なもので、とても飲料水として仕える様な代物ではなかったと言います。
大所帯の家臣団を含め武蔵国全体の「水」を賄うためには、どうしても良質な水源を持ち、
かつ安定した量の水を提供できる「上水道」が不可欠でした。
幕府は開府から三十年を経た1630年頃に先ず神田上水を完成させた後、
更に二十数年後の1653年には玉川上水を竣工させ、水の確保を図りました。
その後、江戸の人口は拡大の一途をたどり、寛政三年の調査では、
町方だけで五十三万五千人
を数えるまでに増え続けています。この数字には、所謂「武家」や、その家族、
さらには社寺奉行の管轄している地区で暮らす人々などは一切含まれていません。
また歴史の授業で必ず出てくる「参勤交代」制度による全国諸大名たちの抱える
家臣団と家族、使用人たちも同じ府内で生活していた訳ですから、
すでに、この時点で江戸の総人口は「百万人」を超えていたことでしょう。
このブログが扱っている八丁堀も、そんな大江戸の一角にあるのですが、
『南撰要類集』と呼ばれる資料によれば、寛政十年十月、
一年分の水道料金(水銀・みずぎん)として「十七両六分」を南町奉行所所属の
与力、同心分として納めたと記録されています。
また『斎藤月岑日記』の天保十二年十一月二十三日の項に「水銀上納」の文言が
見えていますから、その頃は武家が十月、町方が十一月にそれぞれの水道代を
幕府に収めていた事が分かります。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう

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