ピンク石 3 三輪との関連も
(承前 築山古墳出土の石棺)
瀬戸内市、大阪高槻市そして滋賀野洲市を結ぶ交通路が瀬戸内海と淀川、琵琶湖ですから地域的に離れているように見える各地(の実力者たち)には相応の「つながり」があったと考えられます。その中核となったものが畿内の権力構造(大王)と直結したものだったと仮定すると、阿蘇ピンク石を使用できる者は限られた範囲の人々(王族?)になるはずです。
ただ、長持山古墳の例に見られる通り、石棺の持ち主が「最高」権力者からはやや遠い存在であったと見られる古墳も多く、ピンク石が限られた王族にしか利用できなかったとの考えも素直に受け入れることが出来ません。
一方「地域」という条件を加味すると大和の三輪山周辺の重要性が浮上します。石棺が出土した古墳の所在が不明なので、あくまでも「参考」資料の範囲に留めるべきなのかも知れませんが、箸墓古墳と並んで初期纏向型古墳の代表例として有名なホケノ山古墳にほど近い慶運寺にピンク石棺材を使った「石仏」が置かれています。
同寺によると『周辺に六基の古墳があり、どこから出たものなのかは不明』との事で、仏像を彫りだしてはいますが形が鮮明とは言えません。纏向からJR桜井線で南下、大神神社から更に三輪山の山麓を南東に下ると崇神天皇が都を置いた桜井市金屋に至ります。都の伝承地跡とされる志貴御県坐神社から数十メートル先にあるお堂の中に安置されているのは金屋の石仏で、肝心の石棺はなんと、お堂の座の下に隠れています。神社の隣で野良仕事をしていた老婆に尋ねると『もっと山(三輪山)の上に在ったものを今の場所まで持って降りた』そうですが、地元でも余り石棺(蓋の部分のみ)の存在は知られていないようです。
桜井には、後一つ石棺があります。それが前回紹介した兜塚古墳(桜井市浅古)出土品で、古墳は金屋から更に南に下り桜井茶臼山古墳と等彌神社を結んだ南西線上に位置しています。五世紀から六世紀にかけて桜井の纏向三輪を支配していた豪族は三輪氏族であったと思うのですが、先に「火の国」建緒組そして「播磨」稲背入彦命の足跡を追い求め分析してきた者としては、慶雲寺が穴師兵主神社の近くに建てられ、金屋に至っては崇神帝の本拠地そのものであった事実に強い関心を寄せざるを得ません。
(桜井市穴師は垂仁帝の都・師木玉垣宮の伝承地です。次の大王景行帝も穴師付近に都を置き、晩年に至り近江高穴穂宮へ遷都します。また時代は下りますが継体の息子・欽明天皇が金屋の近くで金刺宮を営んでいます)
(続く)
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