厄除け詩集 2 京都での交遊
(承前 読みたい本がありますか)
中原中也より六歳年上の詩人・富永太郎(1901~1925)は、東京府立第一中学校から旧制第二高等学校(仙台)に進み理系の道を模索していましたが、外国文学・哲学などへ関心が移ると共に科学そのものへの情熱が次第に失われ、遂には進級に必要な単位を取れず落第してしまいます。また、その頃からフランス語を学び象徴派詩人ボードレールに強く惹かれて行きます。
極めて私的な問題で二高を中退した後東京に戻り、絵画表現にも深い思い入れの有った富永は私塾に通っていた1923年11月から翌年3月にかけ上海に遊学、画家として立つ夢を抱いて帰国します。時間が少し前後しますが、富永は仙台二高で冨倉徳次郎(1900~1986、国文学者)更には正岡忠三郎(1902~1976、正岡子規の妹・律の養子)と同窓になっており、その二人が何れも京都帝大に進学し、冨倉は学生時代に立命館中学の講師として教鞭をとっていたのです。
国語の試験があって答案の代わりに自作の詩を提出した生徒が目に留まり、交友がはじまります。その変わり者がダダイスト中也で、1924年6月と7月から11月にかけて京都に滞在することになる富永に冨倉が中原を引き合わせ、正岡を含め四人の若者たちの、特に二人の詩人たちの間で濃密で緊張した磁場が醸造されますが、喀血した富永はその事実を友人たちには告げずに帰京します。
中也も長谷川泰子も「上京」したい思いは同じで、翌大正十四年三月、二人は東京市外戸塚町で下宿生活を始め、中原は早稲田大学を受験しようとするのですが「手続き」に不備があり願いは叶いませんでした。
前年東京に戻っていた富永は府立一中の同窓である小林秀雄、河上徹太郎(1902~1980、評論家)、永井龍男(1904~1990、小説家)たちと共に創刊していた同人雑誌『山繭』に「秋の悲嘆」を発表、闘病生活に入っていましたが、中原たちが東京住まいを始めた年の四月、小林に中也を自ら紹介しています。
それから半年後、泰子が中原の許を離れ、小林秀雄と同棲するようになります(同じ月の十二日、太郎は不帰の客となっています。臨終を看取ったのは正岡一人で、中也は呼ばれませんでした)。
その時の思いを中原は『私は口惜しかった』『私は大東京の真中で一人にされた』と「我が生活」の中で述べていますが、小林と泰子の生活は二年半余りの後、彼女が潔癖症を発症したことを契機に破綻することとなり、昭和三年春東京帝大を卒業したばかりの小林は、五月の或る日佐規子(当時、泰子は改名していた)から『出ていけ!』と罵られ、そのまま家を出て関西入りし、お寺に寄宿した後、京都の親戚宅を訪ね、奈良の志賀直哉宅に暫く出入りする様になります。
(続く)
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