写楽たちの銭湯 2 正体不明の浮世絵師
(承前 「港」は「いりごみ」と読ませます。混浴のことです)
歌舞伎役者の似顔絵を描いた東洲斎写楽の実像について、版元の蔦屋重三郎は何も語っていません。
彼の耕書堂には寛政六年に上方から戻って来た十辺舎一九が居候のような形で勤め、
出版に関わる作業を手伝っていたはずなのですが、彼も写楽について他言していません。
一九は寛政七年に蔦屋から『心学時計草』などの本を出してもおり、その翌八年には
『初登山手習方帖』を自作して、文中に写楽の署名を入れた「凧絵」まで登場させている
にも拘わらず、一言も手掛かりとなるような物は残していないのです。
蔦屋という人が、自らの「商い」に関する事柄を日記や随筆の形で残そうとしなかったのは
明らかに意図的な姿勢の様にも見えるのですが、最も彼の身近にいたと思われる、
戯作者の山東京伝ですら、
寛政六年『金々先生造化夢』 寛政八年『人心鏡写絵』
の作品を蔦屋から刊行してはいるものの、写楽に関する証言は皆無なのです。
まるで正体不明の絵師については、活動した時期が一年にも満たなかったことや
肝心の歌舞伎役者たちや、その後援者たち、さらには一般庶民からも多くの支持を
得られなかったことから、新し物好きの江戸っ子たちから忘れ去られてしまいます。
そのような状況の中で文人の大田南畝が『浮世絵考証』を書き、その写本が知人や
好事家たちの間で広まるのですが、寛政十二年になって日本橋本銀町の縫箔師
笹屋新七が作成した「浮世絵始系」を南畝が考証に加えて一本の「類考」とします。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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