厄除け詩集 1 熱血先生と詩

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(春は新学期の季節、新たな出会いもあります)

 井伏鱒二(1898~1993)という小説家を知ったのは二度目の高校一年生の頃で、はっきりとは覚えていないのだが、現代国語と漢文の二科目を担当されていたK先生の授業で中原中也の詩や小林秀雄の評論文などを教わっていた時期だった様に思う。まだ二十代で熱血教師の気質が十分であった先生は、時に教科書の内容を遥かに逸脱して、自らの気分の趣くままにお気に入りの詩歌や漢詩を黒板に書きなぐり、文学の楽しさについて熱弁を振るわれたものでした。

 多分きっかけになったのは小林の文章で『私の人生観』或いは『様々なる意匠』の抜粋だったかも知れません。早くに父親を亡くした小林は家族皆の「生活」を常に意識しなければならず、さりとて組織への就職など念頭になかった彼は、持ち前の文筆力で生計を立てようと考え、東京帝大を卒業した翌年九月には雑誌『改造』の懸賞論文に応募して、二等入選を果たしています。
 その折、一等入選を当てにして「大散財」をやらかし、賞金額が大いに違ったため支払いの時大慌てしたそうな、と謂う逸話も授業には全く関係なく聞いた記憶があるのですが、それはさておき、少し時計の針を逆戻りさせます。

 短歌を創作の手段として文学への志向を強めていた中也(1907~1937)は学業をおろそかにしたため、大正十二年(1923)三月旧制山口中学校を落第、家庭教師の勧めもあって四月には京都の私立立命館中学に転校します。詩人・高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』を読み感激したのが此の年の「秋」のことで、中原が女優を目指し演劇分野(マキノ・プロダクションなど)で活動していた長谷川泰子(1904~1993)と知り合う事になったのは、たまたま彼女が関東大震災(1923.9.1)に遭遇し、京都に「避難」していたからです。

 三人三様、それぞれの記憶が少しずつ微妙に違ってはいますが、中也に泰子を紹介したのは詩人の永井叔(1896~1979)で大正十二年「冬」ではないかと見られています。
 言葉そして表現方法と日々格闘していた中原は、高橋の作品群に触れたことでダダイズムにのめり込みます、他のページで筆者が作品論を詳述している『ノート1924』に在る幾つもの作品は、泰子と同棲していた正にその時期に書きつけられたものでした。

 (続く)



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