写楽たちの銭湯 1 異例の抜擢
今からざっと二百三十年ほど昔、寛政六年五月、江戸で出版業を手広く行っていた
蔦屋重三郎(1750~1797)は歌舞伎各座の五月夏興行の公演に合わせて
東洲斎写楽という画号を持つ浮世絵師の作品を一挙に二十八枚も売り出しました。
当時、大手の出版元から浮世絵版画を刊行する場合には、幾つかの黄表紙などの
挿絵を描かせ、その技量や出来栄えを見極めた上で絵師として採用するのが当たり前
だったのですが、写楽という絵師には何の実績もなく、まったくの素人同然の人でした。
何より出版界の同業者たちが驚いたのは、そんな海の物とも山の物ともつかない人物の
初めて描いた作品に、雲母摺りという最高の画材をふんだんに使わせたことでした。
誰の弟子、門下なのかも不明、住まいや本名も不詳という写楽の浮世絵は、一部の人たち、
歌舞伎に関心のある人たちの注目を集めはしましたが、時の文人・大田南畝(1749~1823)が
『浮世絵考証』の中で、
これまた歌舞妓役者の似顔をうつせしが
あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきなせしかば
長く世に行われず、一両年にして止む
と端的な批評をしたように、俳優たちからはそっぽを向かれてしまいました。
今、彼の作品、特に初期の大首絵を見る者は、その「描写」の特異性、独創性に驚き、
おおむね肯定的な評価をくだすことが多いのでしょうが、
寛政期の江戸っ子たちにとって歌舞伎役者は「アイドル」そのものであり、
憧れの対象だったのです。誰もが「美しい」「格好いい」姿に描かれた「役」を演ずる様子だけが
見たかったのであって、役者そのものの「素顔」を求めていた訳では無かったのです。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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