天照御魂社 6 須佐の天照社
(承前 旧HPでは続編だった内容を掲載します)
縁結びの有難いご利益があることで有名な出雲大社からほぼ南の方角、杉木立が並ぶ車一台がやっと通れる林道を、山間深く分け入った佐田町に須佐神社が鎮まっています。オオクニヌシで知られる「大社さん」には何度も足を運び境内の隅々まで見て回った経験がありますが、この社を訪れたのはたった一度きり、それも駆け足の旅だったこともあり、宮司さんとの話もそこそこに帰り道を急いだ思い出が残っています。
ただ、本殿と参道を挟み真正面に向かい合って建てられていた粗末な社の名称が「天照社」だったことは妙に脳裏の片隅に焼き付いていました。年に一度、須佐社の祭神であるスサノオが「姉」アマテラスの宮にご機嫌伺に詣でるのだと案内文では説明されています。筆者の神様系譜調べも、元はと言えば難解な、そして複雑怪奇な大国主命の「神裔」と滋賀近江の御上神社社家(三上祝)の系譜に、全く同じ名前の神々が居る「謎」を解明しようと思い立ったと言って良いのですが、既に取り組み始めてから十年余りの歳月が流れたにもかかわらず、今だ確かな答えを得られていません。
それはさておき、今回は「天照」の名称と神様の「名前」に含まれる言葉を手掛かりに、推理を進めたいと思います。
物部氏の伝承を元に編まれた『先代旧事本紀』によれば、始祖ニギハヤヒは「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」が正式の尊称で、その父親は天忍穂耳尊であり天孫降臨で知られる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とは実の兄弟の間柄だと云う主張を展開しています。また日本書紀は塩筒老翁から『東の方に美き地あり。青山四周れり。
その中にまた、天磐船に乗りて飛び降る者有り』と聞いた神武天皇が『その飛び降るという者は、これ饒速日と謂うか』と応えているので、彼が「先に」大和入りを果たしていたニギハヤヒの情報を得ていたことも明らかです。そして即位前紀には神武の軍勢に立ち向かった長髄彦が使者を介して、
昔、天神の子有しまして、天磐船に乗りて、
天より降り止でませり。號けて櫛玉饒速日命ともうす。
とも明言していますから、ニギハヤヒに大和の旧勢力から奉られた尊称が「櫛玉(クシタマ)」であったことは確かなように思われます。ただし古事記は、神武の皇后選定段の前章でニギハヤヒの登場を簡潔に記し、彼が『天つ神の御子、天降りましつと聞けり。故、追いて(後を追って)参降りつ』と言って「天津瑞(あまつしるし)」を奉ったと述べ、ニギハヤヒが登美毘古の妹・登美屋毘売を娶って産んだ子が物部連、穂積臣、婇臣らの祖・宇摩志真遅命(ウマシマチ)であるとだけ記録し、書記の詳細な表現とはかなりの温度差を感じさせる内容となっています。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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