蔦屋と斎藤十郎兵衛の接点は?
江戸の浮世絵版画界で多くの役者絵などを描いて少しは人に知られるようになった
東洲斎写楽は、さまざまな資料を集め研究した結果、
当時、阿波徳島藩の能役者であった斎藤十郎兵衛という人物ではなかったか、
という見方が有力視されているのだが、その説には幾つかの「弱点」がある。
その一つが「斎藤には、そもそも絵画に関する技量があったのだろうか」という
素朴な疑問に、誰も答えられない所にあるのだが、それにも増して不思議なのが、
一介の能役者であり、著名な家元一族でもなかった地謡専門の十郎兵衛が、
江戸の出版界で急速に台頭して存在感を増し、寛政中頃には「超有名店」でもあった
耕書堂を経営していた蔦屋重三郎に、どこで、どの様な形で出会い、
雲母摺という最高級の技法、材料を惜しみなく投入した「役者大首絵」を一挙に
多数刊行する大仕事に参画するまでになったのか?
そして、普通であれば知り合う事も無い門外漢に過ぎなかった斎藤を、
出版界の大物ブロデューサーである蔦屋に誰かが「取り継いだ」のか?謎は多い。
一部の研究家は、
絵心の無い素人に、あれだけの迫力ある人物像は描けない
ことを根拠として、写楽別人説を否定するのだが、それも又「状況証拠」に過ぎない訳で、
二人の「接点」を明確に示す資料の発掘が待たれるのだが、それも難しそうだ。
旧徳川幕府から引き継いだ文献が山ほど眠っていると聞くが、筆者のような
時間を持て余している老人たちを大量動員して解析してみるのも面白くはないだろうか。
勿論、ボランティアで。
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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