金太郎 3 団十郎が金時を演じる
(承前 五代目市川団十郎が演じる坂田金時。絵師は勝川春章)
演劇関係のWEBサイトによれば頼光・四天王の一人である「公時」は、1658年に刊行された「あやつり人形劇(浄瑠璃の原点)」の台本『宇治の姫切』で初登場し、翌年の出し物『四天王武者修行』では「金時(きんとき)」の名で大活躍をしています。そして十七世紀に入ると江戸の浄瑠璃師が好んで「金時」と、別の主人公「金平(設定は金時の息子)」の二人を舞台で取り上げ、あやつり人形劇の世界では「きんぴら浄瑠璃」として世間に持て囃されていたのです。(演劇博物館は当時の浮世絵を多数収蔵しています)
この浄瑠璃人形劇による「金時」人気に、輪をかけて江戸の大衆に影響を与えた一人の男が登場します。それが初代の市川団十郎(いちかわ・だんじゅうろう。1660~1704)に他なりません。彼の父親は甲州出身の侠客で「菰の十蔵」の異名をとる人物であったとする説もありますが、それはともかく団十郎は、芝居小屋・中村座の隣町・江戸和泉町で育ち芝居の世界へと入った訳です。
そして、1673年、十四歳の初舞台『四天王幼立(してんのうおさなだち)』で坂田金時を演じ、荒々しい大立ち回りで大成功を収めました。彼は「紅と墨」で顔に派手な隈取をほどこし、大江山の場面では、例の「大鉞(おおまさかり)」を担いで舞台に現れ、酒呑童子を初めとする鬼の四天王を相手に大暴れして、大喝采を浴びたのです。
団十郎の芸風とも言われる「荒事」の原点は、まさに「金時」さんにあったのでした。
聖徳二年(1712)演劇の世界で一つの出来事がありました。「公時」の実像が「坂田金時」の虚像と重なり、次第に団十郎が演じた「金時」像が人々の空想世界を支配するようになった時、近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん,1653~1724)が名作『嫗(こもち)山姥(やまんば)』を書き上げます。その筋書きは、
切腹した(金時の父)坂田時行の血を浴びた
難波の遊女・八重桐が山姥となって生んだのが
五、六歳の童。五体の色は朱のごとく…
鹿、狼、猪を引き立てて積み重ね、木の根を枕に伏したる様、
誠の鬼の子なんめり
という、些か怪談めいたおどろおどろしい内容のものでした。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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