金太郎 2 変貌する公時像

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承前 金太郎の母は山姥とする伝説があります。絵師は歌麿)

 ただ、当時、太政大臣を辞退していたとは言え、政界の頂点を極めていた藤原道長自身の家来であった訳ではなく、道長に仕えていた清和源氏源満仲(多田満仲、みなもと・みつなか,912?~997。彼については『源義経』のページを参考にしてください)の長男であり、摂津河内源氏の祖である源頼光(みなもと・よりみつ、948?~1021)の家臣のひとりではなかったか、と推測されています。

 その根拠のひとつとなっている書物が、これまで何度も紹介してきている『今昔物語集』で、公時の死後、ほぼ一世紀を経た時点で公時は次のように表現されています。

 今は昔、摂津守・源頼光の朝臣の郎等にてありける。

 平貞道、平季武、公時という三人の兵ありにける。

  皆、見目もきらきらしく、手利き、魂太く、器量ありて…

 つまり坂田公時は頼光の家来の中でも特段秀でた三人衆の一人で「器量に優れ、見栄えのする好男子で、かつ腕自慢の豪傑」だったということなのですが、その彼が、十三世紀の半ば頃に成立した『古今著問集』では、頼光の使者として描かれ、さらに時代が下った室町時代の『御伽草子(おとぎぞうし)』では、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治する源頼光・四天王の一人として大手柄をたてた人物として表現されることになります。つまり、段々と英雄像が拡大されていった訳ですね。

 とまぁ、ここまでが史実に基づいた「公時」さんの人物像紹介なのですが、その大豪傑であった「公時」が、一体、何故、あの可愛らしい金太郎に変貌していったのか?その細かい謎解きは大変難しいように思えます。ただ、確実に言えることは、時代を経た江戸期に大衆娯楽として発展をした浄瑠璃・歌舞伎芝居が、物語の流布に大きな影響力を持っていた、という事実です。


 (続く)

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