大名と岡っ引き 7 御家役者の威徳
(承前 右赤丸が威徳家、左が斎藤与右衛門宅)
この時代の大名が「家」という場合、それは単に蜂須賀家(当主個人)そのものではなく「阿波藩の全て」つまりは「藩」自体を意味していたと考えられるのですが、藩士たち全体に能楽を教えるのではなく、藩主個人のための指南役といった役割を与えられていた御役者だったのかも知れません。
分限帳によれば、それが威徳三郎四郎という能役者なのですが、彼は宝生流座付の大太鼓威徳流の一員で、寛政十二年(1800)の「武鑑」に初めて奏者として記載されます。「猿楽分限帳」には「父甚佐衛門」とある人で、恐らく斎藤十郎兵衛より若い世代(1777生?)ではないかと見られます。阿波藩の文政之分限帳には「御役者」の項に同姓の威徳錬次郎の名前も掲載されていますが続柄などは不明です。この人の何が「気にかかる」のかと云えば、それは、
嘉永七年(1854)十一月改正、近吾堂近江屋五平板の『本八丁堀邊之絵図』
では奉行所与力・藤田六郎左衛門の敷地内に自宅が在ることになっているが、
文久二年(1862)、金鱗堂尾張屋清七板の『八丁堀細見絵図』では、
威徳三郎四郎の自宅は与力敷地内には存在していない。
更には、「武鑑」の記載事項から彼の住所は登場した寛政十二年から文久二年まで
一貫して「南八丁堀(五丁メ)」であり「本八丁堀」ではない。
という事実です。
当ブログの「写楽シリーズ」を読んで下さった方には直ぐ、斎藤与右衛門のケースと全く同じ疑問点が再浮上した事に気づかれた事と思いますが、実は近江屋五平板の『本八町堀邊図』には同じ嘉永七年板が、もう一種類あり、同年三月の改正板には威徳三郎四郎の名前は本八丁堀の組屋敷内には記入されていないのです。
資料を素直に読めば「嘉永七年の三月以降に本八丁堀の与力屋敷内に転居した後、文久二年までに元の南八丁堀五丁メに戻った」事になるのでしょうが、高齢になった彼が阿波藩の中屋敷から離れて態々高い家賃が必要な与力屋敷の敷地内に自宅を移す理由が分かりません。また、それなりの事情があったにせよ「武鑑」の記述が南八丁堀で一貫しているのは何故なのか?という疑問には答えられそうにもありません。
この時期、江戸府内の詳細な地図について幕府の専門職(普請方か屋鋪改方?)以外に情報を掌握していた部署は無かったはずですから、その意味で二つの版元が細見図作りに利用した「情報源」は恐らく同じ内容であったに違いないのです。そう考えると謎は深まるばかりです。尚「南八丁堀五丁メ」と称された場所は阿波徳島藩の中屋敷があった区域の道一つを挟んで向かい側の町地で、斎藤十郎兵衛の子供を養子に迎えたとされる国学者で歌人の村田春海(1746~1811)が寛政十二年春まで暮らしていた長屋が建てられていた町でもあります。筆者の脳裏には、
村田春海の養女、多勢子が幼い頃から養子として育てた「垣隣の能楽師」の子供というのは、
八丁堀地蔵橋の与力屋敷内にあった隣家の事ではなく、
阿波徳島藩中屋敷があった南八丁堀五丁メに住いを持っていた威徳家の子弟ではなかったのか?
(村田は寛政後半に数年、同所で生活していました)
という妄想が湧いているのですが、関根正直の伝聞資料(『江戸の文人村田春海』)を覆すだけの根拠は未だ発見することが出来ていません。阿波徳島藩の分限帳には、写楽研究に関係する重要な記載事項があります。皆さんも調べてみては如何。
(終わり)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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