大名と岡っ引き 6 目明しを否定する幕府

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承前 大江戸八百八町、それぞれに親分がいたのかも)

 十八世紀末の江戸には町方だけで五十万人もの人々が暮らしていました。これに対して町奉行所の役人は与力と同心を合わせても三百名にも足らない有様で、其のうえ町人たちの世界、取り分け「裏」社会の実情を捜索の実務者だった同心たちも、殆ど把握できていなかったとも云われています。

 そこに非正規の者たちが権力の末端を肩代わりするという変則的な社会構造が産まれる要因があった訳ですが、あくまでも法律的には何の裏付けも持たない、しかし同心という公の力を持った役人の「お墨付き」を懐中にした手先たちの存在は、時として腐敗の温床ともなり得たのです。

 享保四年六月『偽目明シ鳶之者取締』の覚書で町年寄を通じて「目明しなどという者は存在せず」「今後、その様な事を言う者が有れば訴え出」るようにと触れを公にした幕府は翌五年五月四日、遂に厳罰を下します。

 それは「奉行所加役方の目明し」を名乗って町人(商家?)たちに「金子」を要求した那須屋仁左衛門を獄門に、また彼の「類之者」たちを御仕置(斬首)に処した上で、仁左衛門たちに金子を差し出した町人たちも揃って「科料」としたもので、公儀は触書の中で再び「目明の類は一人もいない」「偽者は直ちに召し取る」ので、おかしな言動をする者があれば「番所に訴え出」るように明言しています。

 一連の動きが徳川吉宗による「享保の改革」に伴う政権基盤の充実策と深く関わっていることは言うまでもありませんが、十八世紀初めの段階で既に「目明し」という存在が町政全体に良くない影響を与えていた事が分かります。
 ただ、幕府が幾ら建前として「目明しは存在しない」と声高に叫んでも、江戸を預かる同心たちにとって岡っ引きは必要悪の象徴でしたから、増えることはあっても減ることはなかったのです。

 「手木之者」たちへの出費は諸藩の有名税あるいは交際費としての性格も帯びたものだったのかも知れませんが、それにしては少し額が大きすぎるようにも思うのですが、読者の皆さんはどのように判断されるでしょう。

 今回ご紹介している「分限帳」には、もう一つ気になる記載があります。それは「町同心」の二つ手前に書かれた「家御役者」という肩書の人物の存在です。写楽探しとも直接関わる事柄なので書き留めておくことにします。そもそも「御役者」と「家御役者」にどのような違いがあるのかが良く分からないのですが、阿波藩では「別」な身分だと捉えられていたことだけは確かです。

(続く)


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