大名と岡っ引き 5 同心たちの私兵
(承前 江戸には「縄張り」を持つ数百人もの岡っ引きが居た)
徳川将軍家お膝元の大江戸で、治安組織の末端を構成していた町方の岡っ引き集団を、全国の各藩大名が蔭で支えていた不思議な構図が浮かび上がります。さて、阿波蜂須賀家では幕臣でもある町奉行所同心や、その配下を構成していた岡っ引きと呼ばれる町人たち多数に扶持米と現金を支給し、藩士たちが犯罪やもめ事(訴訟沙汰)に巻き込まれないよう、若し事件に関わりあった場合には可能な限り表沙汰にならないよう穏便に処置してもらうための予防線を張っていました。
小頭を含め八十名もの十手持ちには、それぞれ数名の「下っ引き」が居ます。その情報網は江戸の隅々にまで張り巡らされていたはずで、府内随一の娯楽場であった歌舞伎の芝居小屋周辺には当然、何人もの岡っ引きが常時出入りして「変わった事(飯の種)」がないかを聞きまわっていたに違いありません。
彼等は映画やTVの時代劇に出てくる目明しのように「十手」をこれ見よがしに振り回したりはせず、一般の町人に混じって小屋の内外に出没します。そんな中、阿波藩の能役者が毎日毎日何か月にも亘って歌舞伎見物に来ていたとしたら、当然、数日の内に情報が同心に届き、日を置かずに藩邸の用人にも伝えられたに違いありません。
つまり、何度も繰り返すようですが、斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽の正体では在り得ない、と考えられるのです。
江戸の実情に大変詳しい三田村鳶魚(1870~1952)は、その著作『八丁堀の与力同心』の中で岡っ引きの存在について、
『手先というものは同心の下働きであって、表向きの給金は半季二朱だったとやら』
『表は表、裏は裏で、同心が幾人、手先を使っているか奉行所へ知れてはいない。
全く同心限りのもので、町奉行に通ったものでない、従がって改まった任命などという順序もなく、
同心が自筆の手札を渡して置くまでのこと』『廻り方(常町廻り)の宅には何時でも二人や三人は
何とも附かない者が居て、拭き掃除などをして下男のように働いていた』
と具体的に述べており、徳島藩の分限帳から推測される町同心、岡っ引きと大名との奇妙な相互関係を裏付けているように見えます。
(文中にある「手札」は同心自筆のお墨付きで、一種の身分証明書のような書付のこと。岡っ引きたちは現金よりも、むしろ手札欲しさに働いていたのです)
(続く)
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