吉原と文人 12 蔦屋の妻は本屋の娘

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承前 狂歌集『絵本吾妻抉』の挿絵より)

江戸の出版界で活躍した蔦屋重三郎(1750~1797)は吉原の「中」で生まれ
育った人だが、遊郭という特別な空間の宣伝広告だけに満足することはなく、常に
新しい物へ関心を払い、自分の可能性に挑戦した人生を望み実践した。

吉原内にあった店舗を天明三年『通詩選笑知』を刊行、これを機に、
日本橋に進出、耕書堂というネーミングで新たなスタートを切った。
世は正に天明狂歌真っ盛りの御時世であり、前年夏八月には大飢饉という
抗いがたい災害に見舞われたにも拘わらず、未だ江戸のエネルギーは枯渇していなかった。

天明六年は幕府を牽引してきた老中田沼意次が失脚に追い込まれた年だが、
蔦屋は、この年にも『絵本吾妻抉』という題名を持つ狂歌集を出している。
上に貼り付けた画像は、その中の挿絵の一枚なのだが、江戸文芸の研究者によれば
ここで恵比須様に商売繁盛を祈願している男が重三郎ではないかと推測されている。

そう言われてみれば着物の紋が「蔦」の様にも見え、隣で手を合わせている女性が
蔦屋の内儀で、玩具を持っている男の子が跡取りなのかとも思えるのだが、
実は彼の妻子については殆ど何も伝えられてはいない。(障子の模様に注目)
彼は日記の類も書かなかったし、友好関係にあった文人たちを真似た随筆も残してはいない。
台東浅草にある正法寺に残されていた過去帳などから、

  文政八年(1825)に亡くなった「鎌心妙日義信女」

という戒名を贈られた「貞(てい、さだ)」が妻ではないかという見方もあるが、
実際の所、文書として、或いは口碑として伝わる逸話も皆無なので、
重三郎の家族構成がどうだったのかは藪の中だ。ただ、彼女は妓楼に居た人ではなく、
江戸にあった「本屋の娘」だったそうな。

 (終わり)


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