大名と岡っ引き 4 数百人も居た親分
(承前)
先に見て来た斎藤十郎兵衛と比べれば少しは「マシ」ですが、とても岡っ引きや手下たちに十分な手当など出せる訳がないのです。ところが貧乏なはずの同心たちは常に何人もの岡っ引きを探索や捕り物の折に引き連れていましたし、幕末期には江戸全体で数百名もの「親分」が居たことになっています。
生活に窮した同心たちが苦肉の策として考え出したのが拝領地内での長屋の運営で、自らが大屋となって「家賃」収入を得ようとした訳です。しかし、これも当然、建築費という大きな投資があっての話ですから、月々の家賃が全て同心たちの懐を潤したはずもありませんので、三百諸侯と称された大小名からの「贈り物」はとても重宝されたと考えられます。
更に、大名側では江戸町奉行所との関係を円滑にする目的で、特定の同心などに扶持米を支給していただけでなく、冒頭で見た「平吉」のような町方の親分たちにも「お手当」を支給していたのです。前に掲載した画像の中に「手木小頭」「手木之者」という項目が見えています。この「手木」は「十手」を意味していますから、これは明らかに「岡っ引き」への給与だと考えられます。
その額は「小頭」が「三人扶持金六両」で「七十八人」の「手木之者(頭)」たちには合計で「百五十六人扶持、金三百二十両」にも及んでいます。(少なく見積もっても年間二千万円以上の出費となります)
「小頭」あるいは「頭」という名称は、彼等「岡っ引き」たちには明確な上下関係を有した独自の組織(縄張り?)が造られていたことを想起させます。また、阿波藩は二人の「町同心」にも「二人扶持」を与えていますから、恐らく懇意にしている奉行所の同心を通じて名前の上げられた特定の岡っ引きたちに「扶持米」が支給されたのだと思われます。
(同心よりも岡っ引きの小頭の方が多くの扶持米を支給されている点が興味深いですね。それだけ彼らがもたらす情報に価値があり、使い勝手が良いと判断されていたのでしょう)
阿波徳島藩は石高が25.7万石(全国17位)の外様で決して大きな大名ではありませんし、特別に江戸との関わりが深い藩でもありませんから、同様或いは同様以上の対応を他の藩でも行っていた可能性があります。
(続く)
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