吉原と文人 11 千金を投じた南畝?

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承前 南畝が『松楼私語』に残した文書より)

今もって不思議でならないのは、あの貧乏御家人だった大田南畝が、
一体どのような手段で吉原の遊女を「身請け」することができたのか、という疑問。
確かに彼は自分でも上に貼り付けた画像にある通りの文章を残している。
天明六年だから1786年である。当時、吉原の松葉屋という妓楼に
「三穂崎」の源氏名で出ていた遊女の賤(おしず)を「一擲千金」を投じて身請け
したと言うのだが、南畝はまだ幕府の学問吟味を受験すらしておらず、
その俸給は最低ランクであり「千金」どころか十両の金もままならなかっただろう。

狂歌集は大層な評判を得て文芸界隈では名を知られる様になってはいたが、
当時の出版界には「原稿料」「執筆代金」を作者に支払うという考え方は無く、
人気作家を茶屋、料亭、妓楼などに招いて酒肴を勧めるのが当たり前だった。
誰が書いたものか失念したが、その頃の南畝の生活ぶりが「余りにも」貧しく思えた
友人たちが「見舞い」と称して現金を包んだ物を渡した位の赤貧振りだったのだ。

同じ疑問を持ったのか国文学者の藤井乙男(1868~1945)も『蜀山文集』の中で
南畝の「身請け」を取り上げ、

  彼は千金は愚か、百金も覚束ない。だから年季明けを幸に取ったか
  でなければ山東京伝の妻、玉の井こと、お百合の様に
  楼主の好意によって然うなったのであろう

と述べていますが、筆者も同感です。
二十三歳の新造だった賤ですが、七年後には他界してしまいます。
南畝の家の端に十畳ほどの離れがあり、そこが彼女の全世界でした。

(続く)

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