大名と岡っ引き 3 同心の手足となる者
(承前 江戸の人口の半分が町人だったと言われています)
東洲斎写楽を語る時、必ずと言って良い程取り上げられる資料に『阿波徳島藩蜂須賀家家臣、無足以下分限帳』(以下「分限帳」と云う)があります。これは四国の阿波藩が「無足以下」の家臣たちに支給していた給与の一覧表なのですが、そこには「小姓」「中小姓」「奥坊主」「御役者」「女中」から「番人」「弓師」「町医師」などの氏名と俸給が詳細に記されています。
今回、筆者が参照している資料は「文政十二年十二月」の日付を持った「江戸住(参勤交代とは関わりなく江戸に常時住んでいる)」の「無足諸士以下分限帳」で十九世紀初め頃の江戸住み家臣と阿波藩への出入りを認められ、扶持を与えられていた町人たちの名前と給与が克明に記されています。
旧ホームページ・オノコロ共和国シリーズで度々取り上げてきた浮世絵師・写楽とそっくりな「写楽斎」という名の浮世絵師が住んでいた町は、江戸町奉行所に勤務する与力、同心の組屋敷が密集した八丁堀と呼ばれる地域だったのですが、幕府の政策によって自らの家族を常時江戸表に住まわせる必要があった大名たちは、自藩の家臣たちが江戸府内において万が一「面倒事」に巻き込まれた際、出来る限り表沙汰にすることなく穏便に解決する目的で奉行所への「付け届け」を欠かすことはなく、与力・同心個人にも「扶持米」を与えたり物品を贈答していたと言われてきました。
親藩譜代或いは外様を問わず江戸府中においては各藩の例え高官であっても何かの事件を起こした場合、一旦藩邸から外に出れば町方の捜索の手が及ぶことになります。また、捕り物帳のようなドラマには同心の手足となって犯罪者の取り締まりを手伝う「岡っ引き」が脇役として顔を出しますが、彼らは正式な奉行所の職員ではなく、あくまでも同心たちが「私」に使っていた非正規の者に過ぎませんでした。
従ってお上から何某かの俸給が与えられる事も無かったので、同心が自腹を切って配下の町人たちに「手当」を出していたと云うのが時代劇の通説なのです。
しかし、同心の得ていた給与の額を考えれば、それが如何に大変な事であったかが分かります。何しろ彼らが幕府から支給されていた年俸は、わずか「三十俵二人扶持」に過ぎなかったからです。一俵の米は60kgですから「2.5俵=一石」に相当します。つまり「30俵=12石」です。これに「二人扶持」が加算される訳ですから「五合×30日×12カ月×2人=3.6石」を足しても合計15.6石にしかなりません。
(続く)
楽しく歴史や文学に親しみましょう
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