吉原と文人 10 妻は二人とも遊女上り

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承前 蔦屋に茶を勧めているのが京伝の妻お菊)

戯作者の山東京伝ほど吉原と深いつながりを持った文人も居なかったと言っていい。
何しろ二人の妻が、いずれも遊女だったのだから。
京伝は先ず絵師としての才能で世に出て行った人ですが、黄表紙『御存知商売物』が
文芸界の先輩で人気狂歌師の大田南畝に激賞され、作家としても活躍して行きます。

そしてお定まりとも言える吉原通いが始まるのですが、寛政元年に年季が明けた
扇屋の番頭新造・菊園(お菊)を、翌二年二月に一人目の妻として迎えています。
京伝に一時弟子入りを志願したこともある曲亭馬琴は後に『伊波伝毛乃記』の中で、
その裏話として概要次のように述べています。

  もともと遊女の方が京伝に惚れていた。だから、年季が明けても店に残った。
  妓楼の主人が二人の仲を良く知っていたので、世話をして一緒にさせた。

つまり京伝が「身請け」して遊女を妻に迎えたのではなく、親しかった楼閣の
経営者の好意で結婚したらしいのです。
折角、相思相愛の仲だった二人が目出度く一緒に成れたのですが、蜜月は
僅か三年余りしか続かず彼女は三十一歳の若さで亡くなってしまいました。
京伝は、その女性の二人の弟妹も結婚と同時に引き取ったそうなのですが、
残念な事に、二人とも早世したと伝わっています。

二人目の妻は弥八玉屋の球の井(お百合)の遊女だった人で、彼女は寛政十二年、
一年の年季を残して「金二十両」で身請けされている。文化九年(1812)
京伝は彼女のために「髪結いの株」を百五十両もの大金を叩いて購入し、
自分が先だっても生活に困らない様にと十分な配慮までしたのだが、
夫が亡くなると心の病に罹り、無残な最期を迎えてしまった。

(続く)


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