大名と岡っ引き 2 町方同心にも俸給

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承前 江戸は地方から流入する人が大勢いました)

 東洲斎写楽の浮世絵版画が町中に出回った頃の、詳しい米相場は調べきれていませんが「一石=一両強」とすれば、九石は十両ほどの価値が有ったと考えられます。
 つまり、一般的な能役者の生活は「ほぼ一か月に一両」の範囲内でやり繰りしなければならなかった訳です。これは、私的に何かの副収入が別にあったとしても、かなり台所事情が苦しかったと想像できます。

 時代劇などでは常に百姓から年貢を厳しく取り立てる悪役としての武家が必ずと言って良い程登場しますが、物価がどれだけ上昇しても決してスライドしない定額給与で生活していた下級武士の暮らし向きも、相当に苦しいものであったと思われるのです。
 土地を耕している農民であれば自家用の野菜や果物なども、栽培する意志さえあれば収穫は可能で、お上も米以外の農作物に米同様の税を掛けることもありませんでした。

 今も昔も事情は同じで、大都市・江戸の諸物価は地方よりも全てが「割高」い訳ですから、斎藤十郎兵衛クラスの武士にとって江戸住、江戸詰は決して楽なものではなかったのです。各藩でも当然その辺りの事は承知していますから、藩士たちの生活を少しでも支えるため、更には江戸市中に出て面倒事に巻き込まれる機会を極力減らすために藩邸内に自前の長屋を建て住まわせました。

 そこを利用する限り藩士たちも家賃の心配をする必要がありませんでした。これまでの研究で、斎藤十郎兵衛の家族は寛政末年から享和元年にかけての間に藩邸の長屋を出て、八丁堀地蔵橋の元与力屋敷地内に転居したと見られていますが、寛政十二年(1800)の頃、米価は「一石当たり、銀76匁(1.27両)」に高止まりしており、飢饉後の急騰時を除いて近年にない高値相場となっていました。

 つまり諸物価の元となる米の価格が再び上昇して家計を圧迫していた正にその時、十郎兵衛があえて「高家賃」の住宅に転居したのには、それなりの明確な理由が存在しなければならないと筆者は考えています。
 それはさておき、と゜うやら大名の扶持を頂いていたのは武士(の資格を有する者)だけでは無かったようなのです。(下の画像は、四国阿波徳島藩の分限帳から引用したものです)

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(続く)


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